こんにちは、カウンセラーいなこです。
中秋の名月の昨日は、月が光り輝いていました。
私には4歳の甥っ子がいるのですが、会うと、
「おねぎょ(私の呼び名)、見といてや!見といてや!」
と、自己顕示欲満載です。
見たところで、こまちとはやぶさ(タカラトミー製)の連結の瞬間だったり、家庭用トランポリンで跳ねているのを見せられたりするだけで、大したものではないのですが、とにかく、見てほしいみたいです。
まあ言われなくても、かわいいのでこちらはずっと見ていたいのですが。
大人になると、見てほしいとか、かまってほしいとか、そんなことをあからさまに言うのは恥ずかしい、いやがられると思うので控えめにするけれど、人間って、本当はこんなものかもしれないなとも思うのです。
こんな心理学の実験があります。
アカゲザルの赤ちゃんを、ケージに入れて育てるのですが、ケージには2つの「お母さん」を置きます。
両方とも、本当のお母さんではなく、ハリガネで円筒形の胴体を作ったものに、顔をつけたお母さんです。
1つは、ミルクの吸い口がある、ミルクの出るハリガネお母さん。
もう1つは、ミルクは出ないけれど、ハリガネの体に毛布を巻いたお母さん。
そこでおさるの赤ちゃんを育てます。
赤ちゃんがどのように過ごすかを観察すると、普段はほとんど毛布のお母さんに抱きついて過ごし、おなかが空いたときだけ、ミルクのお母さんのところに行ってミルクを飲みます。
飲んだらまた、毛布お母さんのところに戻っていきます。
そして、このおさるの赤ちゃんを急に驚かせたら、どっちのお母さんのところに行ったかというと、やはり、毛布お母さんにしがみついたのです。
つまり、おさるの赤ちゃんは、ミルクをくれるお母さんより、ミルクすなわちエサはくれないけれど、毛布のやわらかい、あたたかい肌触りのあるお母さんを、「お母さん」と認識していたということなんです。
このような実験は、動物の一生にも影響を与えるので、今は、倫理的な観点、動物愛護の観点からもされていません。
もう50年以上も昔の実験です。
ただこれは、動物にとって、いかに「ぬくもり」、「愛着」のようなものが必要か、ということを示す実験となりました。
エサさえくれていたらいいというわけではないのです。
何のお腹の足しにもならない、ぬくもり、愛着というものを、動物は求めているのです。
そして、おさるさんでさえそうなのだから、いわんや人間をや、なのです。
人間は、生き物としては、おさるより知能が高いです。
知能が高いということは、それだけよけいなことを考えるということ(乱暴な解釈・笑)。
おさるさんでさえ、何の腹の足しにもならない「愛着」を求めるのだから、もっといろいろ考えちゃう人間は、ごはんが食べられて、生活できたらそれだけでいいとは、なおさらならないのです。
淋しいし、かまってほしい。
そんな思いが生じるのは、当然のことだと思うのです。
そしていろいろ考えちゃう人間だから、大人になって賢くなればなるほど、
「こんなこと言ったら迷惑かな」
「これはわがままかな」
とますますいろんなことを考えて、淋しい、かまってほしい、もっと私を見てほしいという当然の気持ちを言えなくなります。
淋しいと思うのは当然。
かまってほしいのも仕方ない。
心から甘えられた経験がないのなら、なおのことです。
だから、淋しいと思うことを、情けない、申し訳ない、ダメだなんて思わなくていい。
淋しい、かまってほしい、もっと私のことを見てほしい、そんな気持ちが沸いてきたら、
「そうだそうだそりゃそうだ。おさるさんだってそうなんだもの、いわんや人間をや。」
と自分に言ってあげてください。
独特な声かけ(笑)。
淋しいのはおかしくない、思ってもいいって自分で思えたら、それだけで少しホッとできるかもしれません。
そこからその淋しさをどうするかは、いろんな方法があるだろうけど、とりあえず言える人に言ってみるのもいいかもしれません。
「何だか淋しくて。声が聞けるだけでも安心するから、3分だけ話させて。」
そんな風に言ってみる。
気丈に見える人でも、みんな同じ人間だから、こちらから素直な気持ちを話したら、案外共感しあえるんじゃないかなあ。
そんな弱気なこと言ってちゃダメ!もっと強くならなきゃ!とか説教されそうになったら、逃げてー!
「今私、そういうモードじゃないんで」って。(笑)
どうしても話せる人がいないなら、私に話しにきてくれたらいいです!