コミュニケーションしないがためにすれ違う関係は、どのくらいあるのだろう。
’それなりに’うまくいっている→を→’おもいっきり’しあわせに
こんにちは、カウンセラーいなこです。
最近、よく食器を割る。
ひとり暮らしを始めたときに実家から持ってきた食器や、そのとき友人から引っ越し祝いにもらった食器たち。
なんか、やっぱり断捨離して新しくするときなのかな、いろいろ。
なーんて意味づけをしてみる今日この頃です。
さて、車通勤をしていますが、車社会って、ともすれば誤解が生じてトラブルが起こりやすい状態だなあと思います。
車に乗っていると、ドライバー同士は話せないので、相手が何を考えてそんな運転をするのかわからないからなんですね。
道路を縫うように次々他の車を追い越していく車があると、追い越された競争心の強いドライバーは、イラッときて、追い越されまいとする。
あー、あの車たち、競ってるな……というのが
見えることもあります。
無理な追い越しや割り込みなど、乱暴な運転をしている車のその心は、もしかしたら、
社運を賭けた一世一代の会議に遅れそうなのかもしれないし、
おなかゆるくてアレが漏れそうなのかもしれないし、
子どもが産まれそうなのかもしれない。
いつもは安全運転な人だけど、
「今日だけはゴメン!」と思って追い越している可能性もあります。
それでももちろん、安全運転は大事なんですが。
単に運転が不慣れというパタンもあります。
追い越すとき、割り込むときに、
「ごめんなさい、こうこうでどうしても急いでて……」と、
そういう事情をコミュニケートできれば、
先のような競い合いや、一時期話題になったあおり運転なども少しは減る気がするんです。
で、考えてみたら、結局は、人というものも、意識は肉体の中に入っているので、
コミュニケーションをとらなければ、この車社会と同じことになるんですよね。
たとえ車を降りたって、コミュニケーションをとらなければ、
きっとこう思っているだろう、という推測だけになってしまうんです。
そこで、自分の状態がよくなかったりすると、
どんどんと推測は悪い方向へ膨らんで、ただの悪い妄想だったはずが、いつの間にか真実かのようになってしまう。
こういうことですれ違っていく関係って、本当に多いです。
意識が肉体に入っている私たちは、黙っていると、車に乗っていてコミュニケーションできないのと同じ。
発信しないと、いつの間にかすれ違ってしまう。
だけど車社会にも、ちょっとしたコミュニケーション手段はあるんですよ。
行き違うとき、パッと手をあげてあいさつしたり、
列に入れてもらったらお礼の合図としてウィンカーを出したり、
お先にどうぞとパッシングしたり。
初めて知ったときは、そんなふうに通じ合うドライバーたちがかっこいい!と感動しました。
だけど初心者マークのときは、車線変更しながらウィンカーを出すことが、そもそも難しくて怖くてできなかったりするんですけど(笑)。
そういう場合もあるから、多少無礼でも気にしない気にしない。
ともかく、そういうコミュニケーションがあると、気分がぜんぜん違います。
「どうぞどうぞ」と譲り合う気持ちも増すし、
変に恨みを買うこともなくなります。
心が温かくなります。
ということで、車を降りた普段の生活でも、
やっぱり発信しなきゃ伝わらないし、
「ありがとう」
「ごめん」
そんなワンクッションのことばが少しあるだけでも、ぜんぜん気分が違うと思います。
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