箸が転んでも自分責めっ!④罪悪感、愛のB面
まいたけは、塩こしょうと醤油で炒めただけでもおいしい。
天ぷらとか最高。
まいたけはキノコの王様ですね。←たぶん違。
’それなりに’うまくいっている→を→’おもいっきり’しあわせに
こんにちは、カウンセラーいなこです。
さてさて、箸が転んでも自分責めっ!シリーズ④です。
自分の今の苦しみは、根強い罪悪感からきているのではないか、それを何とかすれば何とかなるかもしれないと思った私は、家にあった、師匠の 罪悪感の 本を読んでみようと思いました。
この本、いただいたのかな?
感想書きますと言っていただいたのかもしれない。
出版年月日を見ると、まだ師匠に出会っていない頃だから微妙だけど……
ただ、私は、何でもかんでも自分のせいにするほど私お人よしじゃないし、「罪悪感」はピンと来ないな〜と思っていたので、自分から買っていない気がする。
時間もないので、優先順位が下がって、ちらっと見て、なかなかちゃんと読めずにいたんですよね。
師匠ごめんなさい、師匠の本に限らず、そういう本はいっぱいあるので(^^;;
読みたいけど積んでる本は他にもいっぱいあります。
まーあウソツキですよね。
ウソツキっていうか、ほんとに自分のことはよくわからない、見えないものなんだなあと思います。
ピンと来ないどころか、今となっては、私は罪悪感の権化な気がします(笑)。
ともかく、あらためて読んでみたら、読めば読むほど、当てはまっていたんです。
罪悪感があるとこんな兆候があります、ということがらに。
しかも、麻痺するほどに。
しあわせになってはいけないとまでは思わないけれど、なれるように思えない。
本当になれるのかな。
それはもう、自分の努力の及ばないところで、天まかせな気がする。
天にも見つけてもらえないのかもしれない私は。
自分は迷惑な存在じゃないかと思う。
仲よくなれば、そこまで思わないのですが、できあがっている輪に入っていくのとかは苦手です。
何でもない話をしているところでも、私「なんか」が、「なになに〜?」って入っていくと、
「勝手に入ってくんなや〜」って思われる気がして。
そんなこと言われたことないのに。
それなのに、根強く、私なんかが割りこんだら嫌だろうと思ってしまう。
職場でも言われていました。
我関せずなタイプだと。
ある部分は、ドライに見えていたんだと思います。
どうやら、私に入ってきてほしいと思ってるようだ、と何となく気づき始めても、「もっと入ってこい」と言われても、名指しで呼ばれるまで、入れない。
迷惑な存在だから、好きな人にも近づけない。
私なんかが好きになったら、迷惑だろうなと思ってしまう。
友人にも、「逆の立場やったら、たとえおじいさんとか子どもとか恋愛対象にならない人でも、好きって言われたら、応えられへんにしてもありがとうって思うやろ?別に迷惑とは思えへんやろ?」と切々と言われても、それでも私だけは迷惑な気がしてしまう。
愛を受け取れない。
ほめられても、受け取れない。
聞き流して絶対に真に受けない。
だからほとんど覚えていません。
ほんとはうれしいくせに。
だけど、否定のことばは敏感に探し出してキャッチします。
「××(否定要因)だけど、○○(肯定要因)だね」というほめ方だったら、××の方だけ残ります。
私、同期の中でも1番最初に昇格したんです。
認めてもらった感じがしてうれしかったのに、なぜか同時に、拗ねた気持ちが出てきて。
「きっと今の私が評価されたんじゃない、これからに期待っていう意味なだけだ」と、否定要素を無理矢理に作り出し、うれしいくせになぜか強い拗ねの気持ちが出てきました。
内々に昇格を告げられたとき、帰りの夜道で仲のよかった同期に泣きながら(もちろんうれし涙ではなく)電話するという意味不明さ。
ちょっとおかしすぎるなあwww
辞令が出て、朝礼でひとことあいさつするときも泣いてました。
いいことがあると、うれしいのに、拗ねてつっぱねたくなる気持ちが出てくるんです。
ほんとに、そんな情緒不安定な人間を、よく評価してくれたなと思います、感謝しかない(笑)。
で、本の内容に戻って、罪悪感は、愛の量に比例するという章。
対象を愛しているからこそ、しあわせにできなかったときに、強い罪悪感が生まれる。
愛の強さと罪悪感の強さは比例する。
そんなことが、いろんなケースの紹介とともに書かれていたんですね。
その理論自体は、勉強する中で知ってはいました。
なるほどね、たしかに、そうとも言える。くらいに、理屈としてはわかっていたのですが。
初めて、「そうだ、そうだったんだ……!」と、自分の体験とつながったんです。
私は、母が悲しそうな顔をするのがすごく辛かった。
だから、自分の希望を押し殺してまで、母の喜びそうな方を選んだ。
だけど、自分の希望を殺したこともすごく辛くて、悲しくて、半泣きの顔になってしまって、その顔を見て母は、なぜ私がそんな顔をするのかわからず、結局悲しむ。
自分が悲しそうな顔をしたら、お母さんが悲しむのもわかっています。
それでも悲しそうな顔になるのをやめられないくらい悲しい。
その悲しそうな顔の原因はお母さんとは言えない。
結果的にお母さんを、わけもわからず私が不機嫌になることで、悲しませている。
結局お母さんをすごく悲しませてしまった。
自分はめちゃくちゃ辛い。
すごく辛くて、めちゃくちゃなフラストレーションなのに、それでも絶対に、「お母さんのせいだ!」とは絶対に絶対に言えなかったんです。
1度も。
そこまでして。
自分を傷つけてまで、そんな小さなことが言えなかった。
どれだけお母さんのことを悲しませたくなかったんだろう。
誰にも言えずに、すべてを自分の小さな中に抱えて、1人で耐えて。
師匠の本は(数冊しか読んだことありませんが(^^;)、泣かせの演出があるわけでもなく、わかりやすく順を追って、ワークも取り入れながら実用書みたいな感じが多いのですが。
師匠の本で「涙が止まりませんでした」といった感想を書いている方をたまに見るのですが、「あらまあ、その本で泣くなんて、感受性豊かな方、乙女ね」くらいに思っていたのですが、ああ、まさにそうだ、そういうことだったんだ……!と感じると、実用書でも泣くんですね。
号泣していました。
号泣しながら、あちこちマーカーで線を引く私。←勉強熱心www
私、ほんとの名前は「愛子」っていうんですね。
「誰でも愛せるように、誰からも愛されるように」と、母がつけてくれた名前です。
患者さんなど年配の方は特に、「いい名前やね」とほめてくださったり、私自身、この名前はずっと好きだったのですが、特別愛にあふれてるわけでもないし、いつまでたっても結婚はしないし(笑・結婚していない人に愛がないわけではありませんよ、いつものあいさつ代わりの自虐です!!!)、名前の割に、私は愛に縁の薄い人間なのかなあとうっすら思っていました。
でも、私には、すごく愛があったんだと思えたんです。
以前、先輩のジュンコさんに、家族の話なんてしていなくて、ちらっと自分のカウンセラーとしての悩み相談をしただけなのに、
「絶対傷つけないって決めたんやね」
と言ってもらったことがあったんです。
今の話のどこからそうなるんだろうと思いながらも、どこか、
「わかってもらえた……」
という感覚がありました。
そのこともつながって。
自分がどんなに誤解されようとも傷つこうとも、母のことは絶対に傷つけないということを守り通そうとしたんだ。
結果傷つけてるんだが。詰めが甘いwww
私には、すごく愛があったんだ。
このことに気づいたとき、
これまで、罪悪感という、いわば「愛のB面」を生きてきた自分と、
もっとストレートに「愛のA面」を生きるはずの本来の自分を統合して、
本当に「愛子」になれる気がしたんです。
愛愛言いすぎると、なんかすごく陳腐で安っぽい感じがするから、あんまり連呼はしたくないんですけどね(笑)。
そこから、、、そこからどうしたんやろう。
後追いで書いているので、かつここ最近、日々感情も考えもめまぐるしく変わっているので、記憶が定かではないところもありますが。
とにかく、今の私は、罪悪感の塊だということがわかった。
罪悪感体質になってしまってるし、前の職場にも、前の職場を辞めたこと自体にも、罪悪感を持っている。
そして、母に癒着※もしているのだろう。
※癒着:心理的に相手との境界線がなくなってしまい、つねに相手のことを考えているような人間関係のこと。心理的に「接着剤でお互いをくっつけてしまっているような状態」。(根本裕幸,いつも自分のせいにする罪悪感がすーっ消えてなくなる本,ディスカヴァー・トゥエンティワン,2019,p.92)
前の職場にも癒着しているかもしれない。
執着もしてる。
そのとき、先輩のヤタさんこと椙山眞伍さんが、執着を手放すワークショップを開催されるというのを、何かで見かけました。
続きは次回に。
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