大切な人に望むこと。
暑いですね。
‘それなりに’うまくいっている→を→’おもいっきり’しあわせに
こんにちは、カウンセラーいなこです。
暑さは本番という感じですが、日は少しずつ短くなっているのを感じます。
夏至辺りは、19時でも明るかったのに、さすがに薄暗くなってきました。
ブログの更新がなかなかままならず申し訳ありません。
仕事に時間と神経を取られがちなこの頃です。
最初にお知らせです。
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さて、今年2月に、父方の祖母が亡くなったのですが、祖母が、自分の半生をつづった回顧録が出てきました。
便箋に思うままに書き綴ったもので、ちゃんとしたものでもないけれど、興味深く、実家から借りてきて読んでいました。
若かった当時に書いたものではなく、「今82歳の老婆になり……」という記述があるので、16年ほど前に書いたものと思われます。(表紙には「1982年」とありますが、その分はありませんでした)
「今更、過ぎ去った事を書くのもどうかと思いましたが、あなた方のこれからの人生に於いて何か少しでも励ましになればと・・・まとまりのない文章ですが、したためました。ご判讀いただきたい・・・」と。
そのことを今日は書き留めておこうと思ったのですが、家族との死別の話などがたくさん出てくるので、そういうのを読むのはしんどいという方は、お控えくださいね。
※残虐な描写は特にありません。
これが、思っていた以上に苦労が多かった。
うちの祖母は、夫(私の祖父)を30代で亡くし、その後、1人で3人の子どもを育ててきたんですね。
それは知っていましたが、そのずっと前からもう、たくさんの苦労があったのだということを今回、初めて詳しく知りました。
祖母の父親は、事業をしては失敗して、金銭的にも苦しい状態だった様子。
女学校に入学したものの、制服は1着しか買ってもらえず、それを着たきり。
「乙女のきれいにしたい時期にかなえてもらへなかったつらさは今も忘れません。」と書かれています。
さらに、入学後半年で、月謝が払えないことが何度か続き、家族のために断念して退学。
悲しい。。
それからすぐ下の弟と、鳥取から大阪へ、奉公に出たようです。
祖母は14歳、弟は12歳。
その年で、親元を離れて汽車で8時間離れた見ず知らずの土地で勤めるとは、どれだけ心細かったか。
切なくなってしまいます。
この時代の人としては(大正末生まれ)、めずらしいエピソードではないかもしれませんが。
祖母は大阪の北浜の銀行へ、弟は北区の呉服問屋に勤め、それぞれ別々に住み込みしていたようです。
しかし、2年ほどで、弟が、肺炎で亡くなってしまいます。
そんな若くで、肺炎で亡くなるなんて、環境も医療も悪かったのでしょう。
父親が弟を引き取りに来て、祖母も一緒に鳥取へ帰り、里心がついて四十九日までは実家にいましたが、その後また、大阪の別の奉公先へ行きました。
新しい奉公先で勤めて早々、父親から、給料を前借してもらえないかと手紙が来たとのこと。
来て早々そんなことは言いにくくて、2、3日言えずにいたけれど、家族が困っているので思いきって言ったら、快く応じてくださってとてもうれしかったと書いています。
そこのご夫婦に、よくかわいがっていただいたそうです。
2年ほどのち、鳥取へ帰り、今度は鳥取市内の大きな書店に住み込みで働き始めます。
そこで初めて、恋愛感情を持つ人ができたと書いています。
同じ書店員で、7歳上の上役の方で、はっきりとは言わないけれど、あらゆるところから好意を感じたと。
だけど恥じらいがあり、お店に二人でいるだけのほのぼのしたものだったと。
しかしその方も招集され、昭和18年に戦死されたとのこと。
最後に、
「美しき乙女でありきたゞ一人やよひ十八若き君」
という一句をくれ、青春の最初で最後の一こまと書いていました。
戦争が激しくなり、男性はみな出征していき、恋愛対象となる年齢の男性がいなかったようです。
その頃に好きだった人を、60年以上経っても覚えている。
そうかあ、いや、そうかもしれないなあ。
だけど自分だけが年を取り、戦死したその方は若いままというのも、切ないことです。
その書店に2、3年ほど勤めた後は、実家の近所で公務員的な仕事に就くことができ、やっと家族のそばで、しっかり働いてお金も入れられると喜んだのもつかの間、母親が、激しい咳と共に喀血。
結核です。
祖母の上には兄が1人いて、幼い弟が数人いたのですが、兄は戦争に行っており、弟たちはまだ1番下は4歳。
当然お母さんのところに行きたがりますが、隔離しないといけないので、何とかなだめて引き離し、熱消毒をして、自宅で看病していました。
最初は弟を連れて仕事に行っていたものの、それも難しくせっかくいいところに勤められたと喜んでいた職場をやむなく退職し、家庭の中心となります。
そして母親は亡くなってしまいます。
泣くだけ泣いて、充分な親孝行はできなかったけれど、母親が生前、「お前一人でも女の子を生んでいて良かった」との一言がせめてもの慰めとなったと。
いや十分だよ!(T T)
その後も、鳥取地震(昭和18年)があったり、弟たちが出征したりと、これでもかといろんなことがあり、終戦頃に祖父と見合い結婚。
その後大阪に出てきますが、祖父は37歳で病死。
祖母はきょうだいが手配してくれた母子寮にしばらく入り、1人で子ども3人を育てます。
「母子寮」とはなじみがない方もいらっしゃると思いますが、当初は戦争で父親を亡くした母子のために作られた公的な施設のようです。
興味があって調べました。
その後、戦争によらず、父親と生別死別した生活に困っている母子が暮らせるようになり、現在は、「母子生活支援施設」といった名前になって、DVから避難するシェルターの役割もあるようです。
祖父のお葬式は、祖父が勤めていた会社がしてくださり、祖父の死後、祖母もそこで働かせていただけることになって、ありがたかったとのこと。
余談ですが、祖父が亡くなった病院、父が、祖父が亡くなるまで1年だけ通っていた小学校が、今の私の職場の近くだったんです。
この、祖父母が勤めていた会社も、統合されたりして名前が少し変わりながらも、私がいつも通る道路沿いに現在もあったんです。
知らずに通っていたんです!
今の私の職場は、祖母の家とも、私の実家とも、今の私の家とも近くなく、特に縁もゆかりもないところに配属になってしまったなあと思っていたのですが、不思議な土地の因縁に驚きました。
と、ざっと書いたものの……ただの日記というか、私の個人的な備忘録になってしまいましたね(^^;;
これをここに書いてみなさんに読ませてどうするんだという気がしてきましたが(今さら)、ここまで書いたので意地でアップさせてもらいます(笑)。
こんなにいろいろなことがありながらも、98年間生きたんだなあと思うと、やっぱりすごい。
時代的に、同じような経験をされている方は多く、めずらしいことではないかもしれませんが。
家族の死をいくつも乗り越えて、お金の苦労もあり、それでも、丈夫な体があってありがたいと、何度も自分を鼓舞して、家族のために働いてきていました。
これだけのことがあったら、
「悲しみ」とか「さみしさ」といった感情が、
時空を越えて、
世代を超えて、
私の血の中にも、沁みこんでしまっているかもしれないとも思いました。
実際に、無意識下ですが、家系や世代を通して受け継がれる感情もあるようです。
それを思うと、こんなにもいろいろなことがあって、よくこの家系がここまで持ち直したというか、私の苦労とは比べものにならないというか、私は親きょうだいが今日まで生きていてくれるだけでもありがたいなあとも思います。
祖母が、少しでも、幸せと思うことはあったのだろうか。
書いている当時については、
「一人暮らしは寂しくないと言えばうそになるけど、今は心配事はなく気まゝに暮せる幸福を有難いと感謝するのみ」
と書いていたので、晩年は、心は落ち着いていたんだろうと思います。
実際、そんなことを言っていた気がします。
そうであってほしい。
家族など、大切な人に思うことは、本当に、少しでも幸せであってほしいということに尽きますね。
誰の人生にも、
悲しい別れや、
病気、
お金の苦労、
人間関係の苦労、
いろんなことがあると思います。
そういうのがあると、幸せになれないということではなくて、
そういういろんなことがある中でも、
ささやかなことでいいから、
1日のうちひと時でもいいから、
少しでもたくさん幸せを感じてほしい。
自分のために生きてほしい。
家族に望むことは、それに尽きます。
ということは、私自身もだよなあ。
そんな風に、家族は思ってくれているのかもしれない。
立派になんてなれなくても、
大金持ちになれなくても、
自分自身が幸せに生きてほしいと。
毎日に感謝して、大切な人を大切にして、幸せをたくさん見つけて、生きようと思いました。
2017年9月27日 施設に入る直前、祖母の自宅にて
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