「ノートルダムの鐘」をちょこっと心理学的に考察②ーエゴの対極にあるものー
'それなりに'うまくいっている→を→'おもいっきり'しあわせに
こんにちは、カウンセラーいなこです。
さて前回は、ノートルダムの鐘を題材に、エゴとはなんぞやについてお話しました。
今日はその続きで、怖れでいっぱいのエゴと仲良く付き合うには?というお話をしたいと思います。
▽考察その①はこちら
「ノートルダムの鐘」をちょこっと心理学的に考察①ー怖れに基づいたエゴの声とはー
石にならないでよカジモド・・・劇団四季「ノートルダムの鐘」を観てきました! ←簡単なあらすじも書いてます
怪物と人間の違いを教えてほしい―劇団四季「ノートルダムの鐘」を観てきました!
ここからネタバレありですよー!
エゴは、過去に傷ついたマインドだとお話ししました。
なので、エゴをおとなしくさせるには、過去に傷ついたときの痛みに寄り添ってやるといいんですね。
怖いね、怖いよね。
どうしてそう思うの?
何が怖い?
どうなると思ってるの?
本当にそうなるの?
それは絶対に真実なの?
エゴが何を怖れているのか、どうしてそう思うようになったのか、そこをよく見つめて寄り添っていくと、エゴは静かになっていきます。
そして傷ついた過去の記憶があるなら、それを癒していきます。
あのときの自分は自分なりにベストを尽くしたこと。
相手は相手で必死だったこと。
誰も悪くなかったこと。
自分が愛されていなかったわけではなかったこと。
過去のあのできごとがすべてではないこと。
あの時と今は違うこと。
そんなことを認めて、許していきます。
これが、不安で暴れるエゴとの付き合い方なのですが、それと並行して、エゴの対極にある声に耳を傾けるというやり方も有効です。
エゴは、怖れに基づいたマインドなのですが、怖れと対極にあるものは何でしょうか。
愛です。
人の行動の動機は、突き詰めるとすべて、怖れからのものが、愛からのものかに分けられます。
なので、愛に基づいたマインドの声に耳を傾けるんですね。
愛に基づいたマインドは、たとえば、ハイアーセルフであったり、神様であったり、守護霊であったり。
急激にスピリチュアルですが。笑
エゴも、ハイアーセルフも、どちらも自分の中にあるマインドです。
結局はどちらも自分自身なのですが、イメージしやすい象徴として、ハイアーセルフや神様を想像していただいたらと思います。
ハイアーセルフでも、神様でも仏様でもご先祖様でもいいし、自分を愛してくれたおじいちゃんやおばあちゃんでもいいし、尊敬する恩師でもいいし、今の状況を乗り越えた後の自分でもいいかもしれません。
エゴと対極の存在とは、自分のことを心から信じ、愛してくれる存在であれば何でも結構です。
そこはお好みで。
先のカジモドのように、何かに失敗したり、不安をあおられるようなできごとがあったときは、ついエゴの声に引っ張られそうになります。
そんなときは、エゴの声に寄り添いつつ、
自分のことを心から信じて愛してくれている存在なら、
こんなとき何て言うだろう?
と問いかけてみてください。
そして、怖れに基づいた声ではなく、愛に基づいた声の方へ意識を向けていきます。
ちなみに、エゴの声を信じているときは苦しく、愛に基づいた声を信じているときの方が気分がいいはずです。
それは、愛に基づいた声の方が、真実だからなんです。
そして怖れに基づいて行動すると怖れを増す結果が、愛に基づいて行動すると、愛に帰結するようになっています。
ただちょっと残念なことに、エゴの声は大きく、真実の声は小さいと言われているんですね。
エゴの声は、前回お話したように、アラームであり、余裕がないからけたたましいのかもしれません。
弱い犬ほどよく吠えるっていうのとちょっと通ずるものがあるかな。
ちょっとちがう?笑
どちらの方が気分がいいか、自分が本当に望む幸せに導いてくれるのはどちらの声なのか、よく自分に問いかけてみてくださいね。
さてカジモドの場合は、愛からの声を届けてくれるのは、ガーゴイル(石像)たちだったのだと思います。
最初の簡単なあらすじでは書かなかったのだけど、ご存じない方のために軽く説明すると、大聖堂に置かれているガーゴイルたちは、カジモドの前でだけしゃべるんですね。
大聖堂の屋上の中だけで暮らしているカジモドにとって、彼らだけが友だちだったんです。
「石になろう」は、カジモドと、ガーゴイルたちの歌です。
エスメラルダ救出に失敗して帰って来て、自分に失望しているカジモドを、ガーゴイルたちがなだめ、寄り添い、励まします。
だけど、失敗してショックを受けた直後のカジモドなので、
君たちに何がわかるんだ、石のくせに、
君たちの甘いことばにそそのかされて酷い目にあった、
世間は冷たいというご主人様のことばを信じておとなしくしてればよかったんだ、
とやけになり、ガーゴイルたちに当たります。
そして、
何も感じなければどんなに楽だろう、
いっそ僕も君たちみたいに、石になりたい
と歌います。
だから、「石になろう」なんですね。
このガーゴイルたちとのやりとりも泣けました。
ずっとカジモドを信じてきてくれたガーゴイルたちを、ショック真っ只中のカジモドは、はねつけます。
そしてガーゴイルたちはついに、
もう口出しはやめるよ、
そうだよね、
私たちただの石だもんね。。
君は強いと信じてたのに……
と励ますのをあきらめてしまいます。
ほらーっ!!!
エゴの声に従ったら、ほんとに1人になっちゃうんだってば!!!
どんどん孤独になるカジモドに切なくなりながらも、やけくそになって、大事な人に甘えてひどいこと言っちゃったり、閉じこもりたくなる気持ちもわかる私。
この、ガーゴイルたちがあきらめる瞬間って、子どもの頃、何か気に入らないことがあって拗ねていたら、ついに母の堪忍袋の緒が切れて、
「何をふくれてんの!いい加減にしなさい!もう知らん!」
と怒られたときの絶望を思い出しました。笑
1番愛してくれてる人に見離される悲しさと怖さったらないですよね。
失望しヤケになるカジモドの姿が、そんな自分の思い出とも重なり、よけいに切なかったです。
歌として聞くと、
ガーゴイルたちの、「信じてたのに君は強いと」の部分の音楽が荘厳で、
ああ、本当に大事な人(人ちゃうけど)を傷つけてしまった、
ついに彼らまで失ってしまう、
今自分(カジモド)は取り返しのつかない大変なことをしてしまっているのだ
という感じがしますし、
カジモドの最後の
「こーこーろーーーーー閉ーざーしーてーーーーーーーーーー!!!」
のところからは、苦しい心の叫びが痛いほど伝わってきます。涙
ちなみにこのガーゴイルたちが、カジモドの前ではしゃべるというのは、ディズニーらしいファンタジーな設定ですが、カジモドの妄想というか、心の声という見方もあるようですね。
その見方で見たとしても、カジモドの脳内で、エゴの声と、自分を信じ愛してくれるハイアーセルフの対話として見え、納得がいきます。
元の英語の歌詞は、ガーゴイルがカジモドを励ますのをあきらめてしまうところの最後の「信じてたのに 君は強いと」という部分は、
We just thought that you were made of something stronger
となっています。
私たちはただ、君が(私たちmade of stoneより)何かもっと強いものでできていると思ったんだ
という感じでしょうか。
これも切ないなあと思いました。
いくらガーゴイルたちがカジモドを信じていても、自分たちは石像だから、どうすることもできない。
こんなに信じて応援しているけれど、自分たちは動いて実際に力になることができないもどかしさ。
石は確かに硬くて強いけれど、自分で決めて自由に行動することはできないんです。
だからこそ、カジモドはガーゴイルたちの希望の存在でもあるのではないかなと。
カジモドに、希望を托しているところもあるのかもしれないなあと。
そこまでカジモドに可能性を見てくれるガーゴイルたちは、ほんとにすごく温かい存在だなあと。
だからこそ、そんな存在を突き放してしまうほどの、カジモドのショックと悲しみも際立つんですよね。
ほんとは自分でも、そんなエゴの言うことは信じたくないし、そうじゃないと思いたいし、ガーゴイルたちの言うことを信じたいんです。
ガーゴイルたちが言ってくれることの方が真実だというのは、心の奥底ではわかっているんです。
八つ当たりしながらも、そんなことほんとはしたくないし、自分が不甲斐ないし、応えられないことが悲しいんですね。
大事な人たちを悲しませていることが苦しいんです。
元はやさしい子なんでね、辛いですわ。
それでふと思ったんです、私たちのハイアーセルフや神様やご先祖様も、このガーゴイルたちと同じかもしれないなあと。
ハイアーセルフがどんなに私たちを信じて愛して応援してくれていても、この三次元の世界では、最後は肉体を持った私たち自身が、自分で行動するしかないんですよね。
エゴの声ではなく、愛に基づいた声の方を、自分が選択して。
ハイアーセルフや神様やご先祖様は、この世界で肉体を持って生きている私たちに、可能性を見て、希望を託してくれているのかもしれない。
だから、自分を愛してくれる存在の声を信じて、めいっぱいこの世を生きようとあらためて思いました。
まあそれも結局は、自分の中にあるマインドなんですけどね。
しかしカジモドはすごいなあ。
外に出るたびに、酷い目に遭っているのに。(実は初めて外に出た時に、とても酷い目に遭っています)
勇気あるよなあ。
エスメラルダに出会ってからのカジモドなら、
「こんなとき、エスメラルダなら何て言うだろう」
と、彼女も愛の声を届けてくれる存在になったのかもしれませんね。
この「石になろう」は、
「傷ついた男性性」や、「ロックマン(「岩男」って「石になろう」にピッタリすぎなんだが)」という観点でもお話しできるのですが、しつこいのでノートルダムシリーズはこれにて一旦閉幕といたします。
私の道楽にお付き合いいただきありがとうございました!
オペラ座の怪人と違い、1回観ただけで、よくもあっさい感想と考察を書けたものだな、失礼なことをしてしまったかもしれないと、途中、他のファンの方の感想などを拝見したりして怖くなりました。笑
特に、感想後編をアップした次の日辺りに、カジモド役の飯田達郎さんと、フロロー役の野中万寿夫さんのインタビュー記事がネットにアップされていて、グハァとなりました。
私なんかがこんな浅はかに語ってよい作品だったのかと(ー ー;)
だけどそもそも立派なことを書けると思う方がおこがましいし、感想に正誤もないしということで、走り切らせていただきました。
1回観ただけの人が書いたもの以上でも以下でもありませんので、どうかお許しくださいませ。
ただ、最初の感想で、フロローさまの役職として書いた「司祭」が、ほんとは「大助祭」であったのに気づき、さすがにそれは後からフェアな形(笑)で書き直しました。
大変失礼いたしました。
そして、感想後編で書いた、カジモドになるところをあえて見せる演出は、劇中劇だからだったんですね。
わかってなかった(^^;;こちらも失礼いたしました。
それでもやっぱりあのシーンは感動だったことには変わりありません。
たくさんの方が読んでくださってうれしかったです!
書けて楽しかったです!
ありがとうございました(^▽^)
「罪の炎」と「石になろう」をダウンロードして聞いています。
ダークな2曲だなおい。でもどうしてもこの2つが好きなんだよう。笑
そろそろファントムさまにもお会いしにゆきたいなあ。
1月にお見かけして以来ですもの。
LINE公式登録はこちら
ID @567icozp
▽いなこの雰囲気はこんな感じです。
「やわらかい関西弁が聞き心地よい」とのありがたいお声をいただいています(‘∀‘)
▽お問い合わせ、ご意見ご感想はコチラ