私の父方の祖父は、外では「仏のいな造(仮名・笑)」と呼ばれるほどいい人だったが、酔うと祖母に暴力を振るう人だったそうだ。
これが、根本師匠言うところの「アンダーグラウンド」というものなのかもしれない。「気の小さい人やったんやろうな」と父は言っていた。カウンセリングのしがいがありそうだ(笑)。
幸い、子どもに暴力を振るうことはなく、魚釣りに連れて行ってもらった思い出なんかもあるそうだが、祖母が目の前でたたかれているのを見て父は、「お母ちゃんたたかんといてー!」と泣いたこともあったという。
給料もちゃんと持ち帰らず女遊びもしていたようで、祖母がまだ幼かった娘(父の姉/私の叔母)に、祖父の仕事場に弁当を持っていかせたら、「お父さんよその女の人と食べてた」と言って帰ってきたこともあったらしい(涙)。
結局、そんな飲みすぎの生活がたたって、父が7歳の時、祖父は肝硬変で37歳の若さで亡くなってしまった。
「いな郎くん(←父)、すぐ家に帰りなさい!」と学校の先生に言われて、泣きながら走って帰ったことを覚えているという。
父と祖父の年齢差と、私と父の年齢差は同じ。自分の父親が37歳で死んだので、心のどこかで、「自分もその年になったら死ぬのではないか」と思っていたと父は言っていた。
祖母はそれから、父を含めた3人の子どもたちを、女手1つで育てるために、休日も関係なく必死で働いた。父は、祖母がほとんど仕事で家におらず、かなり寂しい思いをしたそうだ。その上に貧乏。母子寮に入っていたこともあるという。
また今でこそ、シングルマザー・ファーザーも珍しくなくなってきているが、その頃は1人親への偏見も強かった。
そんなわけで父は、寂しい、暗い世界の中で幼少期を送っていたと思われる。
さらに父のきょうだい構成は、姉、父、弟となっており、父は3人兄弟の真ん中でありながら長男でもあり、昔のことだし、父の性格的にも、父親の代わりに自分が長男として家族を守らねば、と子どもの頃からいろいろなものを背負っていたのだと思う。そして真ん中っ子なので、「一番構ってもらわれへんかったんやと思うわ」と私の母はよく言っていた。
祖母も、「あの子は育てやすい子やった」と言っていた。末っ子である叔父は、「保育園行ったらへん!」と言って祖母を困らせたが、父は、祖母が「おしっこは?」と聞いても、「出ん!」と言って黙ってついてくるような子どもだったとそうだ。
勉強もできなかったし、家がそんな状況だったので、父は中学を出たら働いて少しでも祖母を助けようと思っていたそうだ。しかし祖母が、「これからの時代、高校に行っといたらいいのではないか」と高校進学を勧めたので、父は定時制の工業高校へ働きながら通うことにした。
定時制高校にはいろいろな事情をもつ人がいた。もともとが4年制で、かつたいていの学生が働きながら通っており、留年する人も少なくなかったそうで、ひげを生やしたハタチの人がクラスにいたりして、「あの頃自分が若かったから、ハタチいうたらえらいおっちゃんに見えたなあ」とよく父は笑って話していた。
定時制高校に入ったことで、「ああ、いろんな事情を持つやつがいる、自分だけじゃないんだ」と、初めて心の底から明るくなれた気がしたそうだ。工業高校でほとんど男子ばかりだったので、男同士、あほなことをして過ごした、楽しい高校生活だったようだ。
定時制高校に通っている学生の中には、職場の、同じような年だが高校へはいっていない他の同僚に嫉妬されて、結局高校を退学してしまうクラスメイトもいたそうだが、父の職場は年配の人が多く、かわいがってもらって「絶対卒業しいや」と応援してもらい、無事高校を卒業することができた。
こんな生い立ちがあり、父は、「女の人は絶対たたいたらあかん」と思ったという。
また、自分が小さいとき、母親が家にいなくて寂しかったので、自分の子どもには寂しい思いをさせたくないと、うちの母親には、「子どもが小さい間は、家にいてやってほしい」ということで、父は高給取りでもないのに、母はずっと専業主婦だった。
今でも父は、テレビで、小さい子どもが泣きながらお母さんを追いかけるシーンなんかは、見てられへん、辛い、と言う。よほどのトラウマなのだろう。
そしてその生い立ちから父は、自分には特にこれといった才能もないし、学歴や地位や財産の点では大したことない人間というのが自己イメージになっており、「お父さんはあほやから」、「俺は底辺の人間やから」、「自分はアウトローの人間やから」(前科はありません・笑)というのが枕詞となっている。ただ、まじめにやっていたら見てくれている人がいる、みたいなことを信じている人だった。
だから、私や妹にも、成績がどうとか、いい学校に入るとか、そんなことは全く望んでいなかったし、「自分は勉強ができない」と思っているので、私たちがすることに何でも「すごいがな」と感心してくれた。世の中もっと上には上がいるのに、「すごい」の閾値が低かった(笑)。
とにかく父は、「温かい安心できる家庭」が何よりもほしかったのだと思う。「お前らが元気で笑ってたらそれでいい」とよく言っていた。
私は、そんな父にもっとすごい、違う世界を見せてあげたくて、いろいろなことを頑張っていたところも少なからずある。
父は、「自分はあほ」と思っているが、私は思春期頃からは照れくさくて素直にたくさんはしゃべれないものの、子どもの頃から父といろいろなことを議論するのが好きだった。
確かに父には立派な学歴はないが、私が学校で学んできたことを「これはこうらしい」と話すと返ってくる父の意見や疑問がなかなか的を射ていて、話しごたえがあった(上から・笑)。
父は自分は頭が悪いとよく言うが、私は、落ち着いて勉強できる環境じゃなかっただけで、地頭は悪くないんじゃないかと思っていた(何様・笑)。
父は、「学歴がある」ということと、「頭がキレる」ということをごっちゃにしている。
そしてそれら以外にも人の才能のカテゴリーは無数にあるが、とにかくごっちゃにして、自分を低く見てしまっていると思っていた。
高校生か大学生くらいの頃、晩御飯のとき、父の子どもの頃の話になったときふと私は、子どもだった父を、1人の‘いな郎少年’として見ると、本当はいろいろな才能が、可能性があるかもしれないのに、それを家庭の環境やなにかで発揮できないどころか、そんなものが自分にあるとも知らずにただ毎日の生活に必死で生きていくというのがあまりに切なく、悲しく、そんなことがあってはいけないと思えた。
タイムスリップして、いな郎少年の才能を見出して、
「君はあほじゃない!」
「自分をみくびるな!」
「何にでもなれる!」
「方法はいくらでもある!」
と激励して援助してやりたい気持ちになった。
私は、「そんなんでさー、自分はもっとお金とかあったりしたら、もっといろいろできたのにとか思うことないん?」と父に聞いた。
すると父は、
「それはない。それはそれで、俺の人生やから。」
と答えた。
この親父、冴えてる。
いらちで普段はあほなことばっかり言って、テレビに政治家にぼやきが止まらない、お酒が好きすぎる、どこにでもいる’大阪のおっちゃん’だが、 自然な笑顔でそう答えた父は、人より少し不遇だった生い立ちかもしれないが、ちゃんと納得して自分の人生を生きているんだなと思った。
世の中には、どんなに不遇でも、それをばねに偉業を成し遂げる人もたくさんいる。すべてが環境だけのせいではないから、父の人生もまた他の人のそれと同じように、なるべくしてこうなっているのだろう。
そしてもしかしたら私が思っていたほど、父は自分のことをダメだとも思っていないのかもしれない。
これでよかったのだ、これがよかったのだろう。
単に印象的なできごととしてブログネタにとここまで書いてきたが、書いているうちに、私が、「人の魅力をすべて引き出したい」、「いいところを見つけたらすぐにその人に伝えたい」、「自分の中にある能力をすべて使い切って死にたい」と思うのは、この父の影響もあるのかもしれないと思えてきた。
キャー!
親の影響はつづくよどこまでも。
こわいこわい・・・
今日は少しセンチメンタルな話になってしまったが、おかげさまで父も母も、祖母までも(笑)健在だ。
祖母は認知症が進んで、一人暮らしも難しくなってきたので、2年ほど前から実家近くの施設に入っている。
1分間に何度も同じことを聞くので(笑)、父も最初はいらいらして答えていたが、まともに答えると疲れるということを学んで、最近は軽く流している。
祖母)私いくつなったんかな?
父 )ばあさん今年誕生日来たらもう180や。
祖母)えー?私そんななる?
父 )そらそうや、俺がもう90やねんから。
祖母)あんたもう90なったん!?そら年いくはずやなあ。
…………でも……人間そんな生きるかな……?
父 )世界で今のとこばあさんだけや。バケモンや。
※注 実際には、父も祖母ももう少し若いです。