おはようございます、カウンセラーいなこです。
昨日書いたように、最近、あまり生き生きとしたブログ記事を書けていないなあと思っていて、日傘を鬼のように検索したのをきっかけに(どんなきっかけ・笑)、1週間ほど投稿を休んでいました。
その数日前に書いた、ぐるぐる記事(考えても仕方のないことをぐるぐる考えて八方塞がりの気持ちになっていることをただ書きなぐった記事)なんて特にひどいよなあと思って読んでみたんです。
そしたら、意外とおもしろかったんです。
私は、ですよ!
あんなのダメ、まったくおもしろくもないし、ましてや何の役にも立たないし、不快なだけ!と思う方がいても、それはその通りです(笑)。
なにを感じるかは人それぞれですから。
私自身も書いた後は、そんな感じで、こんなのダメだなあと思っていたのですが、時間をおいてあらためて読んだら、意外とよかったんです。
テンポよく読めるし、思考の流れがよくわかるし、ぐるぐる具合がよく伝わるし。
まあ自分の思考だから、そりゃわかるよね(笑)。
そして自分が納得できたら、人がどう思うかは案外気にならないものです。
この「自分が作ったものは、時間を置くといいように見える」という現象は、そういえば絵でもあるんです。
絵も、一生懸命描いて完成した直後は、「あれ、書きたかったイメージと違う……あんなに一生懸命描いたのに……」ってがっかりすることがあるんです。
ちなみに絵の先生が言っていましたが、腕より目の方が先に肥えるから、自分の粗(あら)は見えやすいそうです。技術より先に絵を見るセンスの方が育つから、思ったように描けないけれど、いい悪いはよくわかるのでモヤっとしやすいという。
先生が、そんなに悪くないよ、失敗でもないよと言ってくれても、どうみてもこれはイマイチだな、人前に出せるものではないように思えるんです。
でも、後日あらためてその絵を見ると、あれ、思ってたほど悪くない、結構いい感じやん♪っていう風に印象が変わることがあるんです。
そんな経験ないですか?
なにか作品を作られる方や、ブログを書かれている方でも、自分の作ったものでイマイチだったなと思っていたものを少したって見てみたら、思っていたほど悪くなかったということ。
作っている最中は、力をこめてグーッと入りこんでいるから、理想とする形にも、自分の作品にも入りこみすぎていて、「絶対こうでなきゃ!」、「こうしたい!」という思いこみが強すぎて、少しでも描いた理想と違うとそこばかりに目が向いて、自分が作り上げたもののよいところを客観的に見られていないんですよね。
なにごとも、入りこみすぎると、その全貌が見えない。
自分自身のことなんてその最たるものです。
自分は自分の中に入りこんでいて、片時も離れたことがなくて、外側から見えないから、俯瞰が本当に難しい。
これは、自己の魅力認知において、ゲシュタルト崩壊を起こったことに起因する現象と推察されます。
自分のことも、ずーっと一緒にいてじーっと見つめ続けてぐーっと考えすぎると、本来、いいところも悪いところもすべて含めて味のある1つのまとまりであるあなたという人が、長所、短所などの要素にバラバラに分解されちゃって、ここはいいから伸ばしてあそこはダメだから治してと、本来の姿とは違う、まとまりを欠いたものとして認識されちゃうんですよ。
まとまりを欠いて、本来の姿とは違うように認識するから、変に見える。
本来は長所も短所も同じもので、すべてで1人の人なのに。
いまひとつピンと来ない?
はい、雰囲気だけでもっともらしく聞こえるように勢いだけで書きました。
とにかく、ちょっと俯瞰してみたら、私なかなかがんばってたやん、と思えた1つめのできごとでした。
自分がそう思えたらいいんです。
自分を俯瞰して見ることの効果は、何度かこのブログにも書いた気がしますが、みなさんも、少し離れて、自分のことを、自分のやってきたことを見てみるとまた新鮮な見方ができるかもしれません。
少し離れて、と言ってもそれがなかなか難しいので、時間的に離れる、すなわち少し過去の自分のことを、第三者のことのように振り返って見てみるというのがやりやすくてお勧めです。
あーまたなにこの記事?って思えてきた。また後日読んでみよう(笑)。