こんばんは、カウンセラーいなこです。
お盆前後は帰省されている方も多いのでしょう、車に乗っていても、めずらしいナンバーの車を多く見かけます。
昨日は那須ナンバーの車を生まれて初めて見ました。
那須!
御用邸もあるという、あのすてきな那須から、このクソ暑い大阪へ?
私が代わって差し上げたいです(笑)。
さて、資料を探していたら、小学校の成績通知票が出てきました。
少し赤茶けてきた用紙に、過ぎ去った年月の長さを感じさせられる(笑)。
どんなことを書かれていたのだろうと見てみました。
「穏やかで、友だちがたくさんいて、仲良くすごせました。本を読むのが好きなせいか、作文を書かせても物事をしっかり見る目が育っています。」
「人の話を集中して聞き、とても反応を示すことができています。」
「話をよく聞き内容を的確につかんでいます。絵や工作、文章の表現力があります。文の読み取りも正確です。」
「発言もふえてきましたが、もっと自信を持って積極的に取り組みましょう。その力は十分にあると思います。」
小学校1年生の頃から一貫して、今よく言ってもらうことと同じようなことが書かれていることに、少し驚きました。
「話しやすい」とか、「文章力がある」とか言ってもらえることは今でもあるのですが、今でも大して受け取れていないのに、もっと昔から、同じようなことを先生たちは書いてくれていました。
特に、絵や工作のことは、わざわざほめてもらっていた印象はそんなにありませんでした。
「5教科」ではないし、自分ではそんなに重視していなかったのかもしれません。
でも確かに図工は好きでした。
「芸術的センスがある」というワードが、各種占い(笑)でも、よく出てきたりするのですが、「芸術的センスがある」というのは、芸大や美大を目指す人ようなだったり、うまいんだか下手なんだかわからないけれどなんだかものすごい抽象画(笑)を描けるような人のことだというイメージがあるので、そこまでピンとはこないのです。
だって、私の絵って、普通でしょ?(笑)
まあ私が書きたいのはリアルな女の子の絵なので、それでいいのですが。
そして子どもの頃から、ガンガン前に出るタイプではなかったんですね(笑)。
もっと自信を持って前に出て!と、この頃から先生は言ってくれていたんですね。
私の原型がそんな小さなころからできていたんだなと思うと、うれしいような、また自分という人間が少しわかった気がしました。
そしてやっぱり、 自分に対するほめことばって、ほんとに残りにくいんだなあとあらためて思いました。
本質って、子どもの頃からそんなに変わっていなくて、だからこそ昔から似たようなことを言われてきているので、めずらしさがなく残りにくい。
そして自分の中では聞き慣れているから、ありがたみも少ない。
でもこうして、小さなころから、ちゃんと見てくれて、実はいろんな人が伝えてくれ続けていて、歴代の先生を始め、いろんな人に育ててもらってきたんだなあと、あらためて感謝しました。
時を越えて贈り物をもらった気分です。
とまあ一通り、いなこの輝かしい神童時代を自慢したところで。
みなさんも、昔の記録などを見返すと、あらためて自分というものを知ったり、いろんな人たちに愛されて育まれてきたのだなあということが感じられたりするのではないかと思います。
ただ、私は割と学校に楽しく行けていたタイプで、嫌な思い出もそんなにないのですが、中にはそうではなかったという方もいらっしゃるかもしれません。
ご自身が、あるいはお子さんが、懇談で注意されることの方が多いとか、通知票にいいコメントが少ないとか、学校に行けない、行きたくないとか。
そういう、学校でのネガティブな評価も、その人の一側面には違いないのでしょう。
でもそれは、学校という限られたごく小さな組織の中だけでのこと。
どうしても、来る日も来る日も学校の中にいると、学校における評価がすべてのように感じられますが、そんなの、ほんの一部の限定的なものです。
もしも学校での評価がよくなくても、所属する組織が変われば評価が一転することは多々あります。
他者による評価というのは、その人の一側面をある1つの尺度で測ったものであって、尺度が変わればまったく異なる測定値が出るものです。
評価者にもよりますしね。
評価する人も神ではないので、必ずバイアスはかかります。
学校生活の中で、摩擦なく過ごしやすいタイプの人は、学校の中では評価されやすいと思います。
学校にとって、ある意味都合のいい生徒だから。
集団生活がうまく送れないと、学校にとっては都合の悪い人ということになってしまうので、そういう意味では評価は低くなりやすいかもしれませんが、学校の、1尺度ではそうというだけのことです。
たとえば、学校という集団で、みんなができていることができなかったとしても、裏を返せば、みんなができないことができる、レアな才能がある可能性も大いにあるわけです。
それで将来が決まるわけでもなし、ましてや、その人自身の価値とはまったく関係のないことです。
渦中にいるとなかなかそうは思えないのですが、一歩広い世界に出てみれば、そんな限られた世界の中での評価で一喜一憂したり、マウントし合ったりとかいうのは、なかなかにどうでもいいことだったのだと気づいたりします。
会社でもそうですよね。
そこにいると、そこでの評価や地位がすべてと錯覚してしまうけれど、もっと自由におもしろおかしくたくましく生きている人も、世の中には意外とたくさんいるんですよこれが!
夏休み明けは、自殺が増えるというデータがあります。
仕事の始まる月曜日も。
もし、今、所属している組織で、あなたが苦しいなら、あるいはあなたの近くの人が苦しんでいるなら、もーーーっといろんな世界があるし、いっっっくらでも選べるんだよ、ということを知ってほしい、伝えてほしいです。
特に子どもは、経済的にも、権利的にも、自分で逃げ出すことが難しく、今いる世界がすべてのように感じられやすいと思います。
高い塀に囲まれたこの場所から、どうやっても逃げられない、この苦しいところでどうすることもできもないと思うと、ほんとに追い詰められてしまうんですよね。
だけど、実はいくらでも出られるし、あなたがしっくりくる場所は絶対あるし、あなたみたいな人を探してました!っていう人も絶対いる。
それは絶対。
信じてあきらめないで。
誰かに相談してみれば、とっかかりになる人もきっと出てきます。
かく言うこの元・神童も、数学と体育が苦痛でした。
体育がなくなってほしくて、早く大人になりたいと思っていました。
数学のテスト前は、職員室がテストごと燃えてしまえばいいと思っていました。はい、とんでもなく不謹慎です。本当にごめんなさい。ガキンチョの戯言です。
え、神童は体育も数学もできるしそんなこと思ったりもしないんですか??
それを思えば、今は幸せですねー。
体育も数学もしなくていいので(笑笑)。
歳をとるのも悪くないよ!
あなたは自由だ。
ということで、ほめことばは過小評価しやすいので、耳を澄まして聞いてどんなささいなことでもありがたく保存して定期的に見直しましょう、そしていまいちな評価は悲しいかな刻みつけられやすいですが、参考程度に聞き流して、もっと評価してくれる場が絶対あるからあきらめずに大丈夫だよというお話でした。
それでいいのか?
よいよい。