こんにちは、カウンセラーいなこです。
あなたは、人が好きですか?
人といるのは好きですか?
もしあまり好きではないと思うなら、そこにはこんな心理が隠れているかもしれません。
♪チャッチャチャチャチャーチャチャチャーチャチャチャー……(なぜか世にも奇妙な物語風の始まり方)
関係性を示すことばの一般的な定義に縛られていませんか?
本来千差万別で変化し続けている関係性を、「あるべき姿」という幻想に合わせて、無理に固定しなくてもいいんです。
意味わからないですか?我ながらちょっと何言ってるかわからないです。お願いだから見捨てずもうちょっと読んでみてください(笑)。
たとえば、「友達」っていう関係。
「友達」っていうことばから連想する関係性や近さは人それぞれ千差万別です。
「友達の間には、何の秘密もあってはならない」
って考えている人もいるかもしれないし、
「大の親友でも、言いたくないことの1つや2つはある」
という人もいます。
人それぞれであるのに加えて、1人の人の定義の中でも「友達」が示す幅は広いかもしれません。
一口に「友達」と言っても、「知り合い」に近いレベルもあるし、「親友」に近いレベルもある。
それを言うなら、「知り合い」の定義も、「親友」の定義もまた人それぞれなんですが。
そして、自分の状況も相手の状況も、興味関心や考え方も、刻一刻と変化し続けています。
現実はそうなのに、
「『友達』だからいつもこうしなければいけない」
という理想幻想にあてはめて固定しようとしてしまうと、途端にその関係がしんどくなっちゃうんです。
「友達なんだから、誘われたら必ず行かなくては」とか、
「友達だから電話で相談されたらいつでも何時間でも付き合わなきゃ」とか、
こうされたらこうしなければ、友達だからこうしてあげなくては、っていうのを、すべてのシーン、すべての関係に当てはめないといけないと考えると、すごーく気が重くなっちゃうんです。
そして、そんな風にはできない、しんどいからと、その関係から遠ざかるように。。。
結果、自分が人嫌いかのように感じちゃうっていう。
でも、友達だから絶対こうしなければいけないなんてことはないんですよね。
誰しも、心地よい関係性、必要な関係性は千差万別だし、シーンによっても変わるものだから。
友達にもいろんな種類があるし、自分のその時々の気分もあるし、常に一定に固定しなくていいんです。
「友達だけど、今回の誘いには応じない」、
「友達だけど、長時間一緒はしんどい」、
「友達だけど、一緒に旅行に行きたいほどではない」、
「友達だけど、朝の通勤の道で会ったら気づかないふりをしたい」←あるあるな暗黙の了解(笑)
とかの浮動性があったっていいんです。
友達がまったくいないのは淋しい。
でもなんでもかんでもずっと一緒はしんどい。
そうでしょうそうでしょう。
だったらその都度自分の心地よい距離感でいればいい。
一般的な定義、あるいは相手の定義、そして一度自分が決めた「友達」という定義にさえ縛られなくていいんです。
別に嫌だったらそのとき断ればいいし、どんなに仲良くても入ってほしくないところまで入ってきそうだったら線を引けばいいし、一度盛り上がった人とは今度からもずーっと仲良くしなきゃとか思わなくてもいいんです。
そんな風に思えると、人と関わるのがずいぶん楽になります。
ずーっと固定した関係性でいなければと思うから、人間関係がしんどくなるんですよね。
やさしい人はたぶん、先の先まで考えて、一度親しくなったからにはいついかなるときも期待に応えなきゃ、付き合わなきゃと思うから、人といるのがしんどくなるんじゃないかなあ。
毎回相手の思いにちゃんと応えないと、
自分勝手と思われるんじゃないか、
冷たく思われるんじゃないか、
礼儀知らず、恩知らずと思われるんじゃないかと心配ですか?
その時々で関係性は自分が選べると思うと、自分の空気感が軽〜くなります。
自分の空気感が軽やかだと、相手もその軽やかさを感じるので、かえって相手も付き合やすくなるんじゃないかな。
イエスもノーも言える関係って、お互いにらくちんです。
ほんとはどう思ってるかな?とか考えなくていいし(笑)。
で、その時々で自分が選んだ心地よい関係性で付き合うというやり方に合わない人は、結局どちらかが無理をしないといけない関係ということです。
それでも無理をしてでも続けたい関係なら続けてもいいし、それはしんどいというのなら控えてもいい。
それさえも自由。
いつだって自分にも相手にも、選択権があるんです。
自由に関係性を選べるようになったら、あなたは実は人が大好きだということに、気づいてしまうのかもしれません。
♪チャッチャチャチャチャーチャチャチャーチャチャチャー……