'それなりに'うまくいっている→を→'おもいっきり'しあわせに

「それなりに恵まれている方だと思うし、それなりにうまくやってきた。・・・あれ、’それなり’って何だろう?」悪くない人生のはずなのに、心から幸せと言いきれない、このままで終わりたくないと思ってしまう。そんなあなたに’おもいっきり’のしあわせを。 @カウンセラーいなこ

休みの日何してるんですか?

f:id:inainaco:20200713222933j:plain

すばらしくありたいと切に願いながら、つまらなく見せようと努める。

もうわたし、自分がわからないの(笑)。


 

 

 

 

先日、職場の若者に、「いなこさんって、休みの日何してるんですか?」と聞かれた。

 

「何してるやろ……。片づけとか掃除して、あとは予定なかったら、ごろごろしたり、ぶらぶら買い物したりとかかな。」

 

 

ちょっと違う。

 

そういうことも多いけど、もっと私の特徴的な休日の過ごし方を言えば、絵を描いたりしている。

最近は、このブログや心理学の勉強(って言ってもせいぜい宿題くらいしかできてないけど・笑)で描けていないけれど、そうじゃないときは、もう何年も、土日は絵の学校に行ったり、絵を描いて過ごすことも割と多かった。

 

でも、絵のことは言わない。

今に始まったことではなく、前から。

 

恥ずかしい趣味と思っているから隠したいというのとはちょっと違うのだけれど、「絵を描いている」と言うと、

「絵描いてるんですか!?すごい!どんなん描いてるんですか!?」

という展開になる気がするから、何となく言わないのだ。

複数人での会話だと、一気に会話の主役になってしまいかねない。

 

絵を描くというと、中くらいに(笑)めずらしい行為だからだと思う。

 

 

そんな風に驚いて、興味を持って食いついてくれるなんて嬉しいことなのに。

 

私は、目立ちたくない!人前に出るのが恥ずかしい!というタイプではないのに。

むしろ、前に出たいタイプだと思うのに。

 

 

そんなに食いつかれると、

「いやいやいやいや、そんなに驚くほどのことではないですよ???

そんなに大したことではないんですよ!!!」

と引っこめてしまいたくなるのだ。

 

 

 

もっと認められたい!

もっと注目されたい!

そう思っているくせに、そういうチャンスが来たら、自らふいにしてきた、振り返ると。

 

それなのに、もっと認めてほしい!と。

 

矛盾だらけだ(笑)。

 

認められるには、よっぽどのレベルじゃないといけない、こんな自分ではまだまだだと思っているからかな。

 

 

この前日に、カウンセラーの弟子仲間から、

「普通を何となく嫌がってそうなのに、普通に収まろうとしているようにも見える(笑)」

と言われたところだった。

 

すぐに思い当たるエピソードは浮かばなかったのだけれど、何となく鋭い指摘な気がした。

 

 

ああ、こういうとこかもしれない。

 

 

普通は嫌だ!

そう強く思いながら、注目されてほめられて普通じゃなくなりそうになると、「いえいえ、めっそうもない、名乗るほどのものではございません」と引っこもうとする。

 

矛盾だらけ(笑)。

そりゃしんどいはずだ。

 

 

前に出るのは平気で好きで、仕事で講師みたいなこともしてきたし、生徒会長もしたし(笑)と思うけれど、それはすべて「役割」を担ってであって、個人として、パーソナルな部分を開示する目的で、人前に立ったことはあまりなかったかもしれない。

 

 

自己紹介って、苦手だもんなー。

人に言うほどのことなんてないと思っちゃうもんなあ。

こんなとこにも無価値感。

 

 

 

だけど、相手からしたらどうなんだろう。

 

「いなこさんって、休みの日何してるんですか?」って聞いてくれた若者だって、何か私に興味を持ってくれたのかもしれないし、話のつなぎかもしれないけれど、

私の気のない答えを聞いて、「言いたくないのかな」、「あんまりコミュニケーションしたくないのかな」と思ったかもしれない。

事実、「はは。」で会話終わったし(笑)。

 

 

謙遜して遠慮しているつもりがえって悪いことしちゃったな。

自分のことばっかり気にして、相手のことみていなかったな、ずっと。

熱っぽく自分の好きなこと語る人は好きなのに。

どうして自分にはそうなることを許せないんだ。

こんなとこにも無価値感。

 

 

そういえば、秘密主義とか、自分のこと話さないとか、すぐ相手の話にすり替えるとか言われてきた。

こんなによくしゃべってるのに?って思ってたけど、パーソナルな話は、少なめだったのかもしれない。

いや、話す人には話しているのだけど。

 

 

 

聞かれたことにちゃんと答えましょう!という話ではなくて。

別に、包み隠さずすべてを話さなくてはいけないということではない。

 

 

ただ、「自分なんて」をもうちょっとゆるめましょうよ。

興味を持ってもらったことに素直に喜びましょうよ。

そんなにほしがらなくても、いっぱい、認めてもらっているじゃない。

という話。

 

自分の矛盾に、また1つ気づきましたというだけの話です。

 

 

 

 

 

山椒は小粒でもピリリと辛い、的な?

f:id:inainaco:20200712225932j:plain

ちょこっとしたことでしあわせ!って言っていいんだよね。


 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

 

この土日で、グランピングに行ってきました。

 

グランピングとは、もう広く知れ渡っているのでご存知の方も多いと思いますが、「グラマラス」と「キャンプ」をかけ合わせた造語で、キャンプはしたいけれども、テントを張ったり、火をおこしたりのいろいろは自信がないという人向けに、そういうめんどうな準備はすべてしてくれて、身一つでいける、キャンプのおいしいとこどりができるというものです。

 

自然の中のおしゃれなテントやコテージで、施錠もできるセキュリティー、火を入れるだけの状態にセットされた料理、清潔なお風呂もついていて、女性も安心です。

 

私が初めてグランピングに行ったのも、職場の女子会と称した旅行でした。

よくわからず企画に乗ってついていっただけですが、すてきな会場に私も他のメンバーもテンション急上昇で大盛り上がりだったのを覚えています。

 

 

自分たちで一から調理するのも楽しいけれど、日常で毎日炊事をしている人は、旅先くらいは「夢の上げ膳据え膳ライフ」(笑)を満喫したいという気持ちもありますしね。

 

 

まあ、本当にキャンプが好きな人からしたら、その自分でするめんどうないろいろこそが「おいしいとこ」であって、「そんなのはキャンプじゃない」と言うと思います(笑)。

 

 

 

今回お世話になったのは、京都の天橋立の近くにある、ファームグランピング天橋立です。

www.farm-glamping.com

 

 

穏やかな内海の宮津湾に面したオーシャンビューのドーム型テントで、非日常にまたまたテンション爆上がりです(笑)。

お天気にも恵まれ、外に出るときは雨に当たりませんでした。

 

f:id:inainaco:20200712225505j:plain

肝心のおしゃれなテントの写真を撮っていなかった……

これでも手元の写真の中では1番映える手作りピザの写真(笑)。

 

 

 

 

このことをブログに書くつもりはなかったので、お見せできるいい写真がなく……気になった方は、HPをご覧ください。

ホテルや旅館と違い、他のお客さんや従業員さんと接する機会も少ないので、今、感染が気になる方も、利用しやすいと思います。

 

  

京都は、私の住む大阪とは隣の府で、旅先としては遠くない、近場の方と言えます。

京都というと、舞妓さんとか雅な都のイメージをお持ちの方が多いと思いますが、今回お邪魔した天橋立付近は、もっとのどかな雰囲気のところです。

 

 

同じ京都と言っても、いろいろなところがあるなあとあらためて思いました。

同じ近畿地方という近場でも、まだまだ知らないところはたくさんあるし、近場でも十分楽しめるなあと思ったんです。

 

 

土日の休みがあっても、何も予定がないときはだらだら過ごしてしまうこともありますが、1泊2日だけの近郊の旅行でも、日常から離れて、いい気分転換になりました。

さて、また頑張りますか、と前向きな気持ちにもなれました。

 

 

 

大枚はたいて、遠くのリゾート地で豪華ホテルに滞在しなくても、たくさん楽しみはあるんですよね。

 

 

「私には時間がない」とか「お金がない」とか、そういう理由で、大したことできないなあと思っていても、近場でも、いつもの家や職場以外の場所というだけで、ずいぶん気分って変わるものです。

 

 

 

日常のことに追われているときほど、急がば回れで、やらなきゃいけないことから少し距離を置くと、グググーっと入りこんで視野が狭くなってしまっていたことに気づいて、今やっていることの本質が見えたり、また気合いを入れなおせたりするんです。

 

 

近場の旅行でもいいし、旅行とまでいかなくても、ちょっとお茶を飲みに行くとか、本屋さんをぶらぶらするとか、そういうことだけでも気分って結構変わります。

 

 

 

人生の大半は、職場と家の往復の毎日だったり、やってもやっても繰り返しで終わりのない家事に追われる毎日だったりでも、その中に、ちょこっと非日常を入れることで、繰り返しの毎日にメリハリを作ることができる。

そして距離を置いてみたら、繰り返しの毎日も悪くないなとあらためて思えたりするんです。

また私のあの場所へ帰ろうと。

 

 

非日常を入れることって、人生の薬味のようなものかもしれません。

いつもの料理にちょっと薬味を足すだけで、まるで新しいレパートリーができたかのようにマンネリを抜けて、おいしくなるように。

 

 

買ってきた白身魚のフライにちょっとレモン果汁をかけるとか、 そうめんのつゆにしょうがチューブを絞って白ごまを入れるとか、お味噌汁に七味を入れるとか。

その程度のことでも、ずいぶん本格的に自分好みにできることってあります。

そしていつものルーティーンの料理をあらためて、おいしい!と楽しむことができるんですよね。

 

 

 

薬味って偉大だなあ。

山椒は小粒でもピリリと辛い、的な?

 

 

ちょっと違うか。

たとえ話失敗だ―(笑)。

 

 

 

まあとにかく、ちょっとのことで、楽しみって創り出せる。

すなわち、幸せって、結構いっぱい創り出せるのかもなあ。

そんなことを思いました。

 

 

 

 

 

今ここにいる、今日もとてもいいねえ。

f:id:inainaco:20200710010420j:plain

△カウンターキッチンから下々の民を見下ろす怪獣の図

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。


幼児の雨がっぱ姿はなんて愛くるしいのでしょう。

リアルてるてる坊主を見つけると、見入ってしまう梅雨どきです。

 

 

私にも、来月末で4歳になる幼児、おいがいます。

 

独身貴族あるあるですけど、おい・めいがかわいくて仕方ないという。

 

私もそのクチです。

貴族ではないが。

 

 

なかなかしゃべらず、少し心配しましたが、2歳の誕生日あたりに、「いないいない……」と振ると、「ばあー!」と言い出したのを皮切りに、そこからは、一語文とか段階をすっ飛ばしていっきに話すようになりました。

(あの、初めてしゃべるときのきっかけってなんなんでしょうね(笑)。それよりもっと前からことばの理解はできてたはずだし、「まだしゃべったことはないけど、しゃべろうと思えばしゃべれる」っていう時期はあったはず。「さて、そろそろ自分もしゃべりましょか」って思ったときのきっかけとか心境を幼児に聞いてみたい(笑)。)

 

一応医療人なので、発達も習っていますが、本当に発達って教科書通りではないです。

いや、生きものがそもそももう教科書に収まりきらない存在ですよね。

 

 

電車が好きすぎて、今では、路線の色を言うと地下鉄名を答えられます。義弟も妹も、休みの日は踏切に連れていかされています。はやぶさとこまち(トミカ製)の連結を何回も見せられます。

 

 

 

とにかくかわいいので、私は、捕まえてかぶりついて食べています。


「やめてー!」とあばれるおい。


ますます絶対やめないおば。

 

 

「全部食べてん」と私が言うと、


「全部食べたらあおくんいなくなっちゃうよ?」とおい。

 

 

「あかーーーん!!!

あおちゃんいなくならんといてな(T△T)

絶対おってなー(TT)」

 

 

おばの完敗です。

 

 

 

こんなに小さくて、首も腕も柔らかいけど細っこいおいを触っていると、どこか、とてもはかないもののように感じることがあります。

なにかあれば、すぐにつぶれてしまいそうな。

なにか心配になるような。


考えてはいけないようなこと、考えることさえ怖いことが、ふと頭に浮かんで心配になることがあるのです。


 

だから、おいの

「いなくなっちゃうよ?」

ということばが、なんだか切実にも聞こえたんです。

 

 

 

こんなに小さな存在で、ともすればなにかの拍子に簡単になくなってしまいそうにも感じられるけれど、存在感は莫大で、生まれたからにはどんなに小さくても確実に大きな命であって。

 

 

 

これから無事に大人になるまでに、まだまだいろいろなことがるあだろう。


心配しようとしたら、いくらでも心配の種はあってきりがない。


ずっと安全な場所に閉じこめておくこともできない。



結局は、この子を信じていることしかないのだ。

 

 


 

そんなことを考えていると、自分がここまで生きてきたことも、すごいことなんだなあと思います。


さまざまな物理的、精神的リスクをかいくぐってここまできたのだから。



25年間ほんとうにおつかれさま(ウソ)。

 

 

 


そうだよ、生きてるだけでおつかれさん。

 

すごいよ、あなたも私も十分特別な存在だ。

 

 

 

今ここにいる、ああ、今日もとてもいいねえ。






 

 

 

 

 

三代目N SOUL BROTHERS

f:id:inainaco:20200710002942j:plain

いろいろ考えたら、やっぱ楽しくなってきちゃった

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

 

今、マックスに忙しくなってきています。

 

 

カウンセラー根本裕幸お弟子さん講座の宿題に追われ、本業をし、宿題をし、ブログを書き、その他のことに手が回らなくなってきています。

 

 

だけどふと、「私、本当に根本さんの弟子になったんだなあ」とあらためて思いました。

 

 

 

心理学やカウンセリングに興味があったし、自分でもしてみたいとの思いから志望したわけですが、それ以外にも、カウンセリングという「腕一本」で食べていっている人に、師事してみたいという思いも強かったんです。

 

 

私は、今の本業は、医療系の国家資格で、専門職として働いています。

「自分の腕で」といえなくもないですが、資格ものは、逆に言えば、ある意味資格を取っちゃえばできるという面があります。

もちろん苦労とかがんばる局面はありますよ。

だけど、資格を取って、病院なり施設なりの組織に入ってしまえば、自動的にやっていけるっちゃやっていけるんです。

 

でも師匠は自営です。

そして何かの資格を掲げてやっていっているわけではありません。

本当の本当に「腕一本」なのです。

 

今までの職場の上司も、もちろん仕事に対し真剣でなかったわけではありませんが、やっぱり自営と雇われの身は違います。当たり前ですけど。

楽しみも大きいし、反面、シビアなところもあると思います。

どちらにしても裁量権が大きいということかもしれません。


資格もなく、腕一本というのは、究め方とか、動くスピード、繰り出す工夫が、やっぱり違う気がします。

もちろんどんな仕事にもいろんなスタイルがあるので一概には言えませんし、良い/悪いの話ではなくてね。

 

そういう、「腕一本」の一流職人の下で直接学べるというのが、すごくぜいたくなことで、めったにないチャンスに思ったんです。

 

 

 

また、カウンセラーって、人の魅力を見いだすプロだと思っています。

というか、うちの師匠は、クライアントさんの魅力を見つづけることを一番と言っていいくらい重視しているように私は感じています。

 

人の本質を見抜くことにも長けているし、そうすると、自ずと「教える」ということにも長けてくるような気がします。

 

これまでの上司も、みんなその道のプロではありますが、人の魅力を見いだすことや教えることについてはプロではないので、そういう人に教えてもらうのが楽しみでもありました。

 

 

 

そして、「『お弟子さん』制度」というネーミングも、あたたかみを感じていいなと思ったんです。

 

「カウンセラー養成講座」とかより、「お弟子さん」というのが、もっと距離が近くて、ファミリー的に思えて。

単に技術を教えるセミナーではなく、カウンセラーとしてのあり方、活動の仕方、人としての成長とかすべてを含めて伝授する、みたいな。


そして、「師匠」と呼べる人がいるっていいなと。

「師匠」と呼んでみたいと。

 

師匠がつけたのか、スタッフの方や奥様とか周りの方と話し合ってつけたのか知りませんが、「どういうことばをチョイスするか」にも、その人の人柄や価値観が表れる気がするので、ネーミングも惹かれた理由の1つです。

 

 

 

ピー万円払ったけれど(笑)、安いと思うといろんな人が言っています。

中身濃いし、講座だけじゃなく大量のDVD代も入ってますしね。

そう言っている人が多いと、ああ、師匠は金もうけのためだけにこの講座を開設したんじゃないんだと安心できます(おい・笑)。

 

 

 

私は、退職で悩んでいるとき師匠のブログをみつけ、カウンセリングを受け、ファンになり、申し込んだクチです(あるある)。

 

カウンセリングに来たのだからと観念して、恥をしのんで「根本さん」にあんなことやこんなことを話しました。

ここで恥ずかしがってる場合じゃない、自分の問題を解決するためなんだ!と歯を食いしばって。

もう会うこともないんだしと思って。

 

それが、こんな長い付き合いになるなんて……よくよく考えたらかなりの度合いで恥ずかしいです(汗)。

話し始めから最後まで、全編泣いてたし(笑)。

 

普段はその思い出は、潜在意識の底に沈めています。

でないと正気ではいられないです。思い出してしまったら、ギュッと目をつぶって頭を両手でかきむしって、「やめてーーーーー!!!」と叫びたくなります(なに話してん・笑)

 

いろんな人の、そしてもっとインパクト大な人たちのカウンセリングをしてきている師匠なので、一見さんの私のカウンセリングなんか覚えていないことを祈っています(笑)。

 

 

 

師匠はたまに、お弟子講座のことをブログに書いていますが、

nemotohiroyuki.jp

 

私、「中の人」になったんだなあとあらためてうれしく思いました。

(この写真の中に私がいます(誰が興味あんねん!笑)。ヒントは細身です。太れないんです。父には「骨川筋衛門(ほねかわ=すじえもん)」、母には「ガリ子ちゃん」と言われて育ちました。あらためてひどい親だ。だから深田恭子さんみたいな、女性らしい体型の人が好きなんです。)

 

 

 

私は第3期生の弟子です。

三代目です。

三代目N SOUL BROTHERSです。


今、宿題などせっぱつまってきて1つめの山場感があるけれど、三代目のおまえら、このぜいたくな時間を過ごしていることを思い出して、楽しもうぜー!(急に体育会)

 

N SOULを体に刻みつけようぜ!!!

 

 

 

忙しいけど、今私は、望んでたことの渦中にいるんだよな、そしてこれは、自分のための、とてもぜいたくな時間だよな、と思ったので、今ここでまた初心を思い出しています。

そして忙しい仲間たちにエールを。

 

 

 

そしてそして、まだ何も結果は出ていないと思っていたけれど、こうして少しずつたまっていくブログ記事は、まぎれもなく自分の財産ですね。

さらに読んでくださる方ができて、交流もできたりして。

よく見たら、結果ももう、少しずつ出ていることに気づきました。

 

 

 

いろんなことにありがとうございます。

 

 

 

閑話休題的な内輪受けの話でごめんなさい。

やっぱり宿題などに追われて、理屈をこねくり回す記事(笑)を書く余裕がなくて。

絵のストックがなくなってきて、季節感めちゃくちゃでごめんなさい(汗)。

これからどうしよう。毎日描き下ろす時間ないしループするかも。





 

 

 

 

今を生きるわたしたち その③「先祖から代々引き継いできた痛みを癒す世代」

f:id:inainaco:20200709230753j:plain

このわたしは、わたしだけのものであって、わたしだけでできていない。

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

昨日のつづきで、祖父の配偶者、祖母について。

 

 

祖母の父、私からみた曽祖父は、元は大阪の人で、「マツダ(祖母の旧姓)の土地を踏まないと、この村は歩けない」と言われるほどの大地主だったそうです。

 

しかし、祖母の父は、妻子がありながら、女中さんと恋に落ちてしまい、妻子や家、土地を捨てて、鳥取に駆け落ちしてしまいます。

 

そこで生まれたのが祖母です。

 

なので、祖母は完全に鳥取育ちのため、イントネーションが純粋な大阪なまりではありません。

 

曾祖父はその女中さんと再婚し、その女性が私の曾祖母です。

 

駆け落ち後、家族になり、祖母の下に弟も何人か(笑)いますが(大叔父にあたりますが、みんなそっくりすぎて見分けがつかず、覚えていない(笑)。祖母以外はもう亡くなってしまいました。)、曾祖父母ともに罪悪感はあったかもしれませんね。

 

 

そして祖母は、昨日書いた祖父と結婚し、その後、鳥取を出て何の因果か結局大阪に住むことになるという……。

親が捨ててきた大阪にまた戻ったのです。

 

そして夫はDV男……

 

 

 

 

・・・・・・もう当初書こうとしたことを忘れて離れてしまいました(笑)、ごめんなさい。

 

 

あ、そう、祖母が、ちゃんと給料を持って帰らず女遊びをして、酒におぼれて酔うと自分を殴るような夫と結婚したのも、祖母が何らかの罪悪感を親から引き継いだリしたからかもしれないなと思うのです。

 

知らんけど(おい・笑)。

 

祖母もそれなりにドラマティックな出生ではありますし。

 

 

まあとにかく、いろいろ考えていると、自分の問題は、自分一人のものだけではなく、時を超え、あちこちのいろんなことが、今の自分に影響を及ぼしているのかもしれないと思うのです(ごめんなさい、言いたいことをうまく伝えるのに疲れてきてしまいました・笑)。

 

 

それでね、今という時代を生きる私たちはどうなんでしょうねって思うんです。

 

 

私は、今の時代は、心のことが昔よりはたくさんわかってきて、重視されてきている時代だと思うんです。

 

先祖から脈々と引き継がれてきた痛みを、癒せる世代なんじゃないかと思ったりもしているんです。

(世代といっても、おととい書いたように、同じ時を生きていても、数年違うだけで、価値観は微妙に違ったりするみたいですけどね。)

 

 

もう少し昔なら、心の痛みがあったって、ひたすら努力しろとか、根性論とかで、それは葬られていたかもしれない。

 

でも今は、そうではないことがわかってきたし、多様生き方が認められ、自分の本当の望みを生きようという生き方が、支持されてきている。

 

一部の人だけじゃなく、広くそれが知られてきている。

 

そのための手段も、たくさんある。

たとえばカウンセリングとか、他にもカウンセリングとか、あとは、カウンセリングとか……あ、カウンセリングなんかもいいですね。(しつこい・笑)

 

 

もちろんどんな時代を生きようと、たぶん人の悩みというものは尽きないと思うのですが、今を生きる私たちは、誰が悪いわけでもなく、でも脈々と引き継がれてきた先人たちの痛みにじっくり向き合えるある意味ぜいたくなフェーズに来ている気がする。

 

ずっと引き継いできたものを、根本から癒せるチャンスに遭遇している世代なんじゃないかと思うんですよ、今を生きる私たちは。

 

 

 

だから、カウンセリングを受けましょうね。

いなこさんのカウンセリングなんかは良さそうですよ。あ、でもいなこさんのも捨てがたいですね。あるいは人によっては、いなこさんの方がいいかもしれません。(しつこい・笑)

 

という話ではなくて(笑)。

いや、1/8はそういう話ですけどね(笑)。

 

 

 

今、自分の痛みに向き合う。

 

何かしらの縁で、同じ時代を生きているみなさん、出会えたあなた。

そんなわけで、今を生きる私たちは、痛みをそれぞれ、でも共に、癒していきましょうねって思うんです。

 

きっと出会えたということは、何らかの影響を与え合って、進んでいく仲間だと思うから。

 

 

 

こないださんざんネガティブなこと言った後だから説得力皆無で草  ってやつ()

 

 

今を生きる私たち その②「父、祖父、曽祖父・・・」

f:id:inainaco:20200709003805j:plain

彼方からつながっている、わたし。

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

 

 

昨日のつづきです。

その人を理解するために、世代や育った地域を知ることは大事という話のつづき。

というかごめんなさい、もはやつづきではないです、ただの個人の先祖の振り返りです(笑)。

 

 

 

私の身近な人の育ちといえば、私の父は7歳で父親、私からしたら祖父を亡くしています。

「それはそれで、俺の人生やから。」 これでいい、これがいい。 - カウンセラー いなこ

 

 

父は、今でこそすっかり大阪のおっちやんですが、3歳までは鳥取で育ちました。

兵庫との県境に近い鳥取のお寺の子でした。

父の父、私からみた祖父は、お寺の跡取りだったのですが、跡を継がずに父が3歳の頃、家族を連れて大阪に出てきてしまいます。

 

その後、お寺は人手に渡ったようですが、父方の先祖のお墓は、今もその鳥取のお寺にあり、昔はよく旅行がてら親戚でバスを借りて、鳥取で法事をしていました。

 

 

祖父は外では「仏のいな造(仮名)」と言われるほどいい人だったそうですが、家にはちゃんと給料を持って帰らず、女遊びもし、酔うと祖母を殴ったりしていたそうです。

 

飲み過ぎがたたって、37歳の若さで肝硬変で亡くなってしまうのですが、祖父が悪行(笑)をはたらく人間になった原因について父は、

「『材木問屋をしてお金持ちだったが子どものなかった祖父の叔母』が祖父を甘やかしたらしい」

みたいなことを言っていましたが、叔母が甥を「甘やかした」だけで、そんなことになるのか、私は少し疑問でした。

 

叔母と甥というと、関係的に少し遠いですし、甘やかしたとしてもそこまで大いに影響が出るだろうか。

 

 

そして最近、祖父の数々の悪行は、もしかしたら根本師匠言うところの「アンダーグラウンド」だったのかもしれないという仮説を立てるに至りました。

 

アンダーグラウンドとは、地下活動(アイドルではないです・笑)、ごくごく平たく言うと、あまりに表でいい人をやりすぎて、その反動で悪いことを陰でやってしまうという現象。

自分が自分に期待する~アンダーグラウンドの誕生とそれを手放す方法~ | 心理カウンセラー根本裕幸


表では完璧な良妻賢母をしているけれど、実は不倫しまくっているとか、何かに依存するとか。

 

いいとこ悪いとこ両方あるのが自然な人の姿なのに、無理に完璧ないい人をしすぎると、押し込められた悪い人がどこかから漏れ出して、暴れ出してしまうのです。

 

人間何ごともほどほどがよろし。

バランスー バランスー バランスが大切〜

www.youtube.com

 

 

 

祖父はお寺の跡取りとして厳しく、清く正しく育てられたけれど、その重圧に耐えられず跡を継げなかったんじゃないか。

反抗?

そして外では、「仏のいな造(仮名)」と呼ばれるほどいい人になったが、その反動で家では暴れてしまったんじゃないか、

そしてそんな自分を不甲斐なく思い、ますますお酒にはまっていったんじゃないか……

 

 

情報もほとんどない中の、一考察、どころか単なる私の想像で、今となっては確かめようもないことですが。

私は祖父に会ったこともないし、名前も覚えていないくらいですが、そんな祖父が父に影響を与え、その父に私も影響を受けています。

そして、祖父だって、曽祖父母の影響を受けているのです。

 

 

 

またまた続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今を生きる私たち その①「若かりし先祖とサシ飲みしてみたい」

f:id:inainaco:20200707224442j:plain

 

「わたしを思い出して」

ー紅花詰草ー

 

 

 

 

 おはようございます、カウンセラーいなこです。

大雨の被害が出ているところもありますが、みなさまいかがされているでしょうか。


 

 

先月のカウンセラー根本裕幸の弟子講座で、目の前の人を理解するためには、その人が生まれた年や、育った地域を知ることが大事という話がありました。

 

人間なんて突き詰めたらみんな同じじゃないん?と思っていましたが、たとえば、何歳でどんなできごとを経験するかで、その世代特有の価値観やパーソナリティーが形成されるそうです。

 

生まれ育った土地についても、そこの気候や文化、慣習がパーソナリティーに与える影響は、私が思っていたより大きいようでした。

 

 

コホート研究」というのを、大学時代、心理学の授業で聞いたことがあります。

ある特定の時期にあるできごとを経験した集団を追跡研究するやり方です、いつも通りごく簡単にざっくり言うと。

たとえば、高校受験の年に大震災を経験した世代は、その後どういうキャリアをたどるのかとか。

 

同じできごとでも、それを何歳の時に経験するかで、その後の人生にどのような影響を与えるかは変わってくるということなんですね。

 

 

大震災でたとえると、それが物心もつかないときに起こるか、思春期に起こるか、働き盛りのときに起こるかで、その後経験することは変わってきます。

 

大震災が与える影響は、直接的な人的・物的被害や、そのできごとがトラウマティックな思い出になってしまったということ以外にも、その後の景気とか、技術の発展とか、人の死生観とか、いろいろなことに波及していきます。

 

そういう影響を、どのような形でどのくらい大きく受けるかは、その時その人が何歳だったかということもかなり関係してくるということなんですね。

 

受ける教育の内容が変わったり、就職活動に影響したり、結婚観が変わったり……

就職活動1つとっても、それが容易だったか難関だったかによって、仕事観や経済状況が変わり、それが結婚観に影響を及ぼし……と、どんどんいろんなことが波及していろんな要素が絡みあって、変わっていくわけです。

 

また、自分を育てた親の世代によっても、受ける教育、よく言われることは違いますもんね。

 

今、日本で生きている人たちに、直接影響を与えた大きなできごととしては、太平洋戦争やバブルとその崩壊、大震災などなど。あ、このたびコロナ禍も新たに加わりました(汗)。

昭和初期の生まれの方は、親や祖父母が明治、大正生まれだから、その時代からも多分に影響を受けているでしょうね。

 

 

大学時代にコホート研究について聞いたときは、研究法の1つくらいで流していましたが、根本師匠は、世代や地域の違いを、1人の人を理解するのにとても重視しているようでした。

  

だから弟子講座に申し込むとき、居住地とか生年月なんかを書く欄があったのかー(気がする)。

ただ、これからの活動地を考えたり、師匠好みのギャルかどうかを調べたりするためと思ってたけど(知らんがな・笑)、弟子の特性を理解するためだったのかもしれません。

 

まあそれはいいんですけど(笑)、とにかくだから、世代間のズレ、いわゆるジェネレーションギャップが起こるのは、当然なのでしょうね。

 

もちろん、人間として感じる感情には世代問わず共通するものも当然あると思うし、世代を超えてウマが合うということもあると思いますが、目の前の相手は、自分とは違う苦労や楽しみを経験してきたのだから、価値観が違っても当然だと思っておけば、むだに摩擦を起こすことも減るかも知れませんね。

むしろ、へー、あなたはそう考えるのねと、お互いに楽しめたら最高です。

 

 

 

そして、そうやっていろんな育ちの人たちが、脈々と子を産み育て、今の自分にも何らかの影響を与えているわけで、自分が持っている価値観、そして罪悪感や無価値感、はたまた魅力や愛も、親やそのまた親からと、少しずつ形を変えながら、先祖代々引き継がれてきたものかもしれないんですよね。

 

 

先祖たちに会ってみたくなりませんか?

 

私はなります(笑)。

 

できれば、今の私と同世代か、年下の状態の先祖たちと会ったみたい。

 

先祖としてというより、同じ年ごろの人間として、どんなことに悩み、幸せを感じているのか、おいしいものでも食べながら、ゆっくり語り合いたいです。

 

 

どんな人たちが、今を生きる私を作ってくれたんだろう。

その中に気の合う人はいるかな。

やっぱり感謝を伝えたいな。

あなたの子孫は今、令和の時代をなんだかんだ言いながらも生きてるよって。

 

 

ほんとに、人の生っておもしろいです。

 

 

 

なんか主題がずれてきたし、今日は特に結論らしき結論はないけれど、このまま続きます。

 

ごめんあさーせ(笑)。