イラストを習っている。
仕事に少し余裕ができ始めた7、8年前に、何か仕事以外のことを始めたいと思い、偶然見つけたイラストのスクール。
1本の線の美しさやライブ感を大事に、できるだけ手早くシンプルに描くというのが、この学校が追求する美で、先生たちが紙の端キレにさっとする落描きも、センスのある作品になる。
他の生徒さんたちも、プロのイラストレーターを目指してやってくる、すでにある程度描ける人が多い学校だ。
私は、八つ切りサイズの画用紙に自宅で描いた絵を持参するとき、ポートフォリオ(絵を持ち運ぶとき、曲がったり汚れたりしないように入れるケース)に入れずに、絵の道具を入れるカバンに裸のまま直接入れたり、ときには自転車のかごに直接入れて学校まで持ち運んでいた(ホームセンター帰りか!笑)。
でもあるとき、持参した絵を先生に指導してもらった最後に、「いなこさん、『作品』を丁寧に扱いましょう」と注意された。
「ほら、ポートフォリオに入れずにそのまま持ってきてる。」
作品……
ポートフォリオは一応持っていた。
それなのに私がどうしてそれを使わず、自分の絵をそんな風に運んでいたのかというと、ただただ、ずぼらだからというのもある。
しかしそれ以上に、「こんなもの」をポートフォリオに入れてわざわざ仰々しく持っていくなんて、という思いがあった。
この学校が追求する美に魅了されて、迷わず入学を決めたけれど、私は、イラストについてはズブの素人。
自己流で女の子の絵を描くのは昔から好きだったが、本格的に習ったこともなければ、美術部なんかに入ったことなどもない。
そんな私が描く絵は、先生たちや、他の生徒さんたちから見たら、とても「作品」と呼べるものではなかった。
だから、そんなものを、さも貴重な価値ある作品であるかのように、仰々しくポートフォリオに入れて持ち運ぶなんて、図々しい、おこがましい、恥ずかしい、という感覚がぬぐえなかったのだ。
私にとっては、
「つまらないものですが」
という謙遜のつもりだった。
先生は、せっかく描いた作品を大切に扱うこと、いい状態で保管して人に見せることを教えてくれた。
たしかに先生たちは、習い始めのド下手な時から、私の絵を大事に扱ってくれていた。
もっとこうしたらいいといった指導はもちろんするものの、「全面的に失敗の絵」として扱われたことはただの1度もなく、「この線が美しく引けている」とか、「ここのデッサンがとれてる」とか、「絵の具のにじみ具合がきれい」とか、「描かれているシチュエーションがおもしろい」とか、とか、何かしらいいところを見いだして、それを生かすように教えてくれていた。
そうだ。
先生たちは、絵のプロ。
絵が好きで、絵と向き合ってきたのだから、たとえそれがどんなに拙くても、他の人の絵の大切さもわかるのだ。
「つまらないもの」としてぞんざいに扱ったものを相手に見せるのは、渡すのは、謙遜でも何でもなく、むしろ失礼なことなのであった。
どんなに下手でも、「これが描きたくて、思いをこめて描きました。」
上手い下手より、そういう熱意の方が大事なのだということに気づかされた。
あなたが謙遜のつもりで、ぞんざいに扱っているものはありませんか?
私が作ったこんなへたくそなもの、私の書いたこんなくだらない文章、私の選んだこんな大したことないプレゼント、……そして、こんなつまらない私。
「こんなもの」を大切そうに扱うなんて、おこがましい、恥ずかしい、そう思って乱暴に扱っているのなら。
そんなうまくできないこと、自分にはまだ難しいこと、苦手なこと、慣れないこと、初めてのこと、よくわからないことを、やってみようと頑張ったあなたの気持ちを思い出してください。
そのあなたの気持ちが、1番貴重なものなのです。
「ぜんぜん上手くないけれど、今の私の精一杯です」
そんな思いで、あなたのそれを、あなた自身を、大事に扱ってください。
あなたのその熱が、周りの人を温めるんじゃないかなあ。