'それなりに'うまくいっている→を→'おもいっきり'しあわせに

「それなりに恵まれている方だと思うし、それなりにうまくやってきた。・・・あれ、’それなり’って何だろう?」悪くない人生のはずなのに、心から幸せと言いきれない、このままで終わりたくないと思ってしまう。そんなあなたに’おもいっきり’のしあわせを。 @カウンセラーいなこ

どこまでいってもどのみち主観しかないんだから、Youの好きなように感じちゃいなよ!

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冷蔵庫を開けて何をみつけるかは、

人それぞれ違うよね。

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

おかげさまで、何とか今月の宿題を提出することができました。

 

カウンセラーとしてのキャッチコピーも考えました。また師匠から何らかのフィートバックがいただけるのだと思うのですが、そののちに、しれっとこのブログでもお披露目しようと思っています(笑)。

 

 

 

さて、「心理学」というと、世間ではカウンセリングのイメージが強いと思いますが、それはあくまでも心理学の応用分野の1つであって、一口に心理学と言っても、さまざまな分野があります。

 

大ざっぱに言えば、「心」を通すものはすべて「心理」です。

 

 

たとえば、人間の、刺激の感じ方、感覚。

 

 

重さについて考えてみましょう。

 

手のひらの上に、1円玉を置かれたらわかると思いますか?

きっとわかりますよね?

たったの1gですが、重みを感じられると思います。

 

では、5kgのお米を抱えているところに、1円玉を乗せたらどうでしょう?

ちょっと重くなったなと気づけますか?

気づけないです。

世間にはいろいろな人がいるので、何か特殊な訓練をされていて「私は気づけます」という人も中にはいそうですが(笑)、一般の人(笑)はわからないです。

 

 

長さ。

体長2cmほどのメダカが、ある朝突然5cmになったら、「うわっ、大きくなってる!」と驚くでしょう。

しかし、ジンベエザメの体長がある朝突然3cm伸びても、きっと誰も気づかない。

ベテラン飼育員さんなら気づくのだろうか。

 

 

つまり、人間は、正確に刺激を感じ取っているのではないんです。

いつも一定に、1gや3cmの差を感じとっているわけではなく、元々感じている「量」によって、その差を感じたり感じなかったりしているわけです。

 

 

この、心で感じとれる量を、「物理量」に対して、「心理量」と言います。

正確に説明しだすと難しくややこしいので、詳細は良書にゆずります(笑)。

 

 

こういう感覚なんかも、物理的な量を「心」でどう感じるかということを研究するので、心理学の一部になります。

どちらかというと、心理学の中でも概論の教科書の最初の方に出てくる基礎的な分野ですね。

 

人が感じる感情などは、こういう感覚などが基礎にあって、その上で社会的な要因などさまざまなものが混じり合って生じるとても複雑なもので、カウンセリングなどは、応用心理学の1つと言えます。

 

 

 

感覚の話に戻ると、音なんかも、音の正体は、物理的には音波ですよね。

物が動くと、空気が振動し、その空気の振動が鼓膜を揺らし、音として、私たちに「聞こえた」という感覚を生じさせる。

 

モスキート音ということばを聞いたことのある方は多いと思いますが、高周波数の音です。蚊の飛ぶ音にたとえてこの名前が付けられています。

人間の耳は、老化により高周波数の音から聞こえにくくなりますが、このモスキート音は、若者にしか聞こえない高い周波数の音で、不快な音なので、たむろする若者を撃退(笑)するために、コンビニの入り口付近で流すなんていう使われ方もしているようです。

いやぁほんと、あの音って不快ですよねー(←みえっぱり・笑)

 

モスキート音は、人間の若者には聞こえますが、若者でさえ聞こえない周波数もあります。超音波ですね。

この世界にある空気の振動を、すべて人間が感じ取っているわけではないんですよね。

無数の音波が発生している中で、どの人間も、音として聞いていない、気づいていない振動もあるわけです。

 

 

色にしてもそう。

子どもの頃から、「犬の目は白黒しか見えない」と聞いて育ちましたが、そもそも色は、物体が光を反射したり吸収したりしている光の波長を感じとって、色として認識しているわけです。

 

だから、たとえば人間は、ある物体をこんなとして認識していても、「本当に」その物体がこんなであるかはわからないわけです。

 

もう、意味わかります?(笑)

宿題が終わった開放感でつい、我ながらややこしい話に手を出してしまいました(笑)。

 

たとえば、Aさんには色①がこんな色に見えていて、それを「赤」と呼んでいる、

その一方、Bさんには色①がこんな色に見えていて、それを「赤」と呼んでいる、

2人とも、色①の見え方は本当は違うけれど、2人ともいつも色①を「赤」と呼ぶので、2人の間では話のつじつまが合うし、2人はその違いに永遠に気づかないのです。

「いや、違う、この色はもっと青みがかってる」とかことばで微調整したって、その「青」と感じているものが、AさんとBさんでまったく同じかもわからないんです。

 

ここまで極端に見える色が違うということはなくても、もしかしたらそれぞれ見ている色は微妙に違うかもしれない。顔が違うように、感覚器官にも多少の個人差があるかもしれない。

どこまでいっても、その人の「目」を通してしか、色という感覚は感じられないですから。

 

さらに、色①の「本当の色」は、Aさんの感じている赤でも、Bさんの感じている赤でもないかもしれないのです。

いや、ん?本当の色って何ですか?(笑)

そこには光の波長があるだけで、受ける光が違えば、見える色が変わるわけだから。

もっと精度高く光の波長をキャッチできる生き物がいれば、また違う色に見えるのかもしれない。

正確な知識は、良書に譲ります(逃亡・笑)。

 

 

 

要は、すべてのものが、自分の感覚を通してしか感じられないし、それは物理的に正確ではないということなのです。

もっと人間より精度の良い感覚器官を持った生き物がいたとしても、その生き物も、すべての物理的な刺激を正確に感じとっているとは限らないのです。不可能?

 

 

これを考えだすと、いったい私が今見ているものは何なんだろう、私は何に囲まれているのだろう、ここはどこなのだろうという何とも不思議な気分になります。

そして、ある意味みんな、すべてにおいてどこまで行っても自分の感覚を通してしか感じられないという意味では、一人ぼっちと言えるかもしれません(悲しい感じにするなよ・笑)。

 

 

 

今日は何が言いたいかというと、すべてはある意味どこまでも主観的なんだよね、ということです。

感覚のような基礎的なものでも、大きく言えば、実はこんなに主観的なんです。

ならば、優劣とか、美醜とか、感情とか、そういう応用的なものの主観加減はいかほどか、という話なんです。

 

もう、重さとか長さとか色とか音とか、一見絶対的に思えるものだって、実はめちゃくちゃ主観的なんだから、人の評価とか、人気とか、そんなものなんて主観の極みだよねって話。

 

だから、ぜーんぜん気にしなくていいし、逆に言えば、自分の好きなように感じちゃっていいんです。

どうせ不正確で勘違いで主観的なんだったら、思いっきり楽しくなる感じ方を選ぼうぜってことなんです。

 

もう、私はすてきなとびっきりいい女って、堂々と思ったっていいんです。

本当にそうなのか?真実なのか?なんて考えなくていい。

どうせもともと正解はありえないし、逆に言えば、すべてが正解なのだから。

 

 

 

そしてもう1つ。

幸せも、正確には感じとれないのかもしれませんね。

 

お米を抱えていたら、1円玉が乗ってもわからないように、今実はたくさんの幸せを抱えていたら、そこに小さな幸せが乗ってもわからないのかもしれない。

もしもたとえば、命をおびやかすようなできごとに遭ったとしたら、そのときに、1円玉のような小さな幸せの重みに、はじめて、やっと、気づくのかもしれない。

 

 

「不幸でもないけど、幸せでもない」っていうのは、実はかなーり幸せなのかもしれない。

感覚ってすぐ順応するからねー。

 

 

ああ、ただひたすらに耳が痛い(泣笑)。

 

 

長くなりましたが、人間の基礎的な感覚でさえ結構主観的なんだから、どうせなら楽しくなる主観を選びません?(私と一緒に(←訓練中・笑))ってお話でした。