'それなりに'うまくいっている→を→'おもいっきり'しあわせに

「それなりに恵まれている方だと思うし、それなりにうまくやってきた。・・・あれ、’それなり’って何だろう?」悪くない人生のはずなのに、心から幸せと言いきれない、このままで終わりたくないと思ってしまう。そんなあなたに’おもいっきり’のしあわせを。 @カウンセラーいなこ

生きているということは、愛されているということ

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生きているということは   愛されているということ



 

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

 

 

俳優の三浦春馬さんが亡くなられました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

各マスコミでも、たくさんの方の惜しむ声が報道されています。

 

私も、ニュースを知ったときは、大変驚きました。

 

三浦さんの動向をいつも追いかけているというような熱烈なファンではないものの、もちろん存じ上げていたし、観ていたドラマもあるし、驚きと悲しさを感じています。

 

 

 

今年、志村けんさんも亡くなられました。

 

私は、志村けんさんのことも、当然存じ上げてはいたものの、特別ファンで、必ず志村さんの番組を観るというわけではなかったのですが、それでも大変驚きましたし、もう志村さんが新しく創り出すコントを観られないのだと思うと、悲しく、寂しく、とても大きな喪失感を感じました。

 

 

志村さんは、大御所中の大御所だったので、若手の人気芸人さんのように、普段は若いファンにキャーキャー言われたり、話題になったりすることは少なかったかもしれません。

 

それでも亡くなられたとき、老若男女を問わず、本当にたくさんの人が嘆き、悲しみ、惜しんでいました。

 

 

 

 

こんなとき、思うことがあります。

 

熱烈なファンでなくても、いつも見ていなくても、それでも、人の心の中にしっかりと住みついているということがあるのだなあということ。

 

それは、「大好きです!」、「大ファンです!」というような熱い激しい愛ではなく、普段は見えにくいけれども、たしかに存在している、静かなじんわり温かい愛なんだと。

 

 

 

静かでじんわりした熱だから、普段ははっきりとは気づきにくいけれど、それがなくなったときに、ああ悲しい、寂しいと、初めてそこにたしかに愛があったことに気づく。

 

 

 

 

人だけでなく、街並みやお店、すべてのことがそうです。

 

 

あるお店に、たまに行くくらいだとしても、そのお店がなくなってしまったら、とても寂しく残念に思う。

 

毎週通うほどの常連ではなくても、閉店を知ったときに、あのお店、好きだったのになあ、もう行けないのかあ、残念だなあ、まだまだ行きたかったなあと思う。

 

 

 

きっと、そこにいるだけで、そこにあるだけで、愛されていることってたくさんあるんでしょうね。

 

 

普段はいるのが当たり前で、空気のようで、

「好きです!」

「あなたは素晴らしい!」

「あなたが必要です!」

「あなたはすごい!」

「大切です!」

「いてくれなきゃ困ります!」

なんて口に出して言われなくても、熱視線で見つめられなくても。

 

 

そこにいるのが当たり前で、それだけで落ち着く、いてくれるだけで寂しくない、たまに会うと楽しい、それだけでも十分、愛なんだと思います。

 

だって、いなくなったら絶対に悲しいもの。

寂しいもの。

 

 

当たり前の基礎的な愛だから、わざわざ言わないですけどね。

そういう人やものが、きっとあなたにもあるはずです。

 

 

 

「愛」なんて言うと、仰々しく、大げさで神聖すぎて、こそばゆくて、よくわからないかもしれませんが、楽しいなあ、おもしろいなあ、落ち着くなあ、たまに会いたくなるなあ、時々ふと思い出す、なんかいいなあ、なんか気になる、そんなのをひっくるめて私は、「愛」と呼んでいます。

 

 

 

だから、熱烈歓迎されていなくても、特別扱いされていなくても、感謝されなくても、愛を告白されなくても、あなたも私も、生きているだけで、思うよりたくさんの人に、愛されているんです。

 

 

わざわざ言うほどでもない、穏やかな、基本的な、じんわり温かく、細く長く続いているものだから、わかりにくいだけで。

潜在的な愛は、そこらじゅうにたくさんある。

 

 

 

「愛」のハードルは、そんなに高くない。

 

 

 

生きているだけで、知らないところで、愛されているんです。

だから、生きていてくれるだけでありがとう、なんです。

 

 

 

お忘れなきよう。

 

 

 

 

 

 

とりあえず、決めちゃえ。あとはのんびりいきましょー。

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あとさきなんて考えず、軽やかにね。

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

 

先日は、カウンセラー根本裕幸師匠の、自己肯定感のセミナーに参加していました。

 

 

突然ですが、みなさんは、ドラえもんの道具を1つだけもらえるとしたら、何にします?

 

どこでもドア?

タケコプター?

 

そんな現実逃避の議論(笑)を友達たちとしたことがありますが、1番賢い選択は、「もしもボックス」だというのを聞いたことがあります。

「もしも○○だったら……」という世界を作れる道具なので、こまごました他の道具を使わなくとも、すべての願いが叶っちゃうという。

 

 

「自己肯定感」は、人間の心理における「もしもボックス」だと思います。

もしも心理の中で、1つだけ身につけられるとしたら、「自己肯定感」を私は選びます!

これさえあれば、何をやってもやらなくても、とにかく幸せに、楽しく、楽に生きられるんですよ。

 

 

というわけで、基本のきの自己肯定感セミナーを受けました。

オンラインでしたが、やっぱり心理界の「もしもボックス」を手に入れようという賢明な同士は多く(笑)、たくさん方が受講されていましたね。

 

 

セミナーは、自己肯定感について学んだのですが、それに付随する質疑応答の中で、自己肯定感とは直接関係はないのですが、気づきがあったことをシェアしたいと思います。

 

 

 

それは、「決める」って、大事だということ。

 

自分で決めると、それは実現するという話になりました。

決めないと実現しないんですよね。

よく聞くたとえですが、カーナビに目的地を入力しないとナビはできない。

食べたいものを明確に注文しないと料理は出てこない。

 

人間の願望も、それと一緒ということなのです。

 

 

 

そういう理論は知っているのに、私はどうも、決めることが苦手です。

 

どうして決められないかというと、「こうする」と決めても、それが叶わなくてがっかりするのが嫌だから。

また、決めてもそんなこと実現するとは到底思えないので決められないからです。

 

 

そのことを質問したのですが、「決めると叶うもんだよ」という答えが返ってきました。

 

 

たしかに、決めたのに実現しないとがっかりするし悲しいけれど、「叶う」、「実現する」というのを、どのスパンで見るのかということ

1回失敗した、叶わなかったとしても、またやればいいし、まだまだ次の展開、その次の展開もあるんだよということを根本師匠は言っていました。

 

そっかー、人生の中で見れば、何が成功で何が失敗かなんて、そんな1か月や1年では見極められないよな、と素直に納得。

 

私はどうも、「がっかり」、「ぬか喜び」という感情を大変嫌っているようです。

それを避けるために、常に最悪の場合のシミュレーションをしておきたくて、でも、それを考えすぎると、こんなことしても実現しないかもしれないのに、意味あるのかなと動けなくなっちゃうんですよね。

 

 

でも、人間万事塞翁が馬

短いスパンで、ダメだったと落ち込みすぎることはないんだなと、心が少し軽くなりました。

 

 

ほんと小さなことでもなかなか決められなかったりするんですよね。

たとえば何の予定もないフリーの日、ちょっと電車に乗って家から離れたところのカフェに行こうかな、行きたいなという気持ちはあるのに、でも今から家を片づけて行ってもすぐ夕方になっちゃうなとか、いろいろ考えていると、結局考える時間が長くなって、本当に時間がなくなって1番意味のないことになるんです(笑)。

そしてあの時さっさと行っておけば普通に行けたやんってなるんです(笑)。

いろいろ考えて、結局ただただ時間を浪費する、これが何より避けたい失敗ですよね(笑)。

 

 

ということで、

実現する/しないを心配せずに、とりあえず決めてしまう、

決めれば実現するし、短いスパンで実現した/しないと結論を出して一喜一憂しなくてもいい、

ということを学んで楽になりました。

 

 

そしてもう1つ、自己肯定に大事なことは、そういう望ましい行動や思考ができなくても、そんな自分を責めないこと、そこで「ああ、また私決められない!」と自分を責めると、また自分を否定して二次災害が起こっちゃいます

 

だからすぐに思考のパタンを変えられなくても、まあしかたないなー、そんなにすぐ変われたら苦労しないよねー、これが私だもんねーと許すことが大事だそうです。

そうやっているうちに、だんだんと自己肯定できるようになってくるらしいよ。

 

 

 

なんか要は、何でもいいんだなーと楽になりました。

 

 

 

やっぱり、根本師匠の話を聞くと、具体的な提案はあるけれど、それに圧倒されないというか、提案されても「そんなの無理、できない、しんどい」っていう気分にならなくて、楽に前向きになるんですよね。

そういう提案ができるカウンセラーになりたいな。

 

 

 

追伸:今気づいたけど、♪まいっか言っとけまいっかー、こまった時はまいっかー、深く考えないでまいっかー、開き直ってまいっかーって、よく考えたら自己肯定的神曲じゃないですか!?

潜在意識の底から、この曲が自然に出てきました(世代・笑)。

脳内エンドレスリピートしとこ。

 

 

 

 

 

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 

 

大吉引いといて「いいことがない」なんて、どうかしてるぜ!

 

 

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まあ大吉!

たいへん、これはとんでもないことになりそうね♡

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

先週、天橋立にグランピングに行ったと書きましたが、

www.aikoingk.com

 

そのときに、天橋立にある智恩寺文殊堂にお参りしました。

まつられている文殊菩薩さまは、知恵を授けてくださるそうです(今さらとか笑わない!笑)。

 

 

お寺の境内に行くまでの参詣道の木に、かわいらしい扇子がたくさんつってありました。

扇子型のおみくじで、引いた人たちが、おみくじをつって帰ったものでした。

あ、こちらです。

www.travel.co.jp

 

 

そのかわいらしさに惹かれ、私もおみくじを引くことにしました。

 

 

 

結果は……大吉!!!

 

 

 

「わー」とうれしかったものの、次の瞬間、私の頭に浮かんだことは、

 

「もしかして、大吉しかないのでは?」

 

という思いでした。

 

 

そこでおみくじがつってある木の下に行ってよく見ると、「凶」はなく、すべてが「末吉」以上でした。

文殊菩薩さまの、やさしいお心遣いなのでしょう。

ちなみに「中吉」と「吉」ってどっちがいいのと思いません?

大吉―吉―中吉―小吉―末吉―凶の順にいいそうです。

 

 

私は、「やっぱりそうか……」と思いました。

もともと、悪いものが出ないようになっているんだ、これは「真の大吉」ではないから、真に受けてはいけないな。

 

 

 

いやいやいやいや!!!

です(笑)。

 

 

 

 

我ながら、なんで手放しで、

「やったあ、大吉だー!!!」

と喜べないのか、つっこみどころ満載で、もはや笑ってしまいます。

「凶」はないにしても、一番よいとされる「大吉」をまぎれもなく引いたのだから。

 

 

 

仮にもし、一番下の末吉が出ていたらどうだったでしょう。

 

私は、そのまま真に受けて

「ああ、やっぱりあまりよくないんだな、私の運勢は」

と気にしていたと思います。

 

 

 

この思考では、一生幸せになれないなと、苦笑しました。

 

だって、「大吉」を引くという幸運が起こっているのに、いやいや、そんなの真に受けてはいけないと、幸運を認めていないのだから。

 

幸運がない、起こらないのではなくて、起こっても起こっても自らないことにしているのです。

 

 

 

なんでそんな風に思ってしまうのか。

私の場合、「喜びすぎて後でがっかりしたくない」、「ぬか喜びしたくない」という思いが強い気がします。

ぬか喜びしてがっかりしたトラウマでもあるのかな。

あまりすぐには思いつかないけれど。

 

 

でもこのパタンは、ほめられた時も同じです。

ほめられるのはうれしいけれど、お世辞を真に受けてがっかりしたくない、そういう思いがあって、3割くらいしか受け取れずに来ました。

 

 

 

あーもったいないー。

 

 

 

幸運とか幸せは、ちょくちょくと起こっているのに、結局カウントしてないんですよ。

それで「大していいことがない」って。

ええかげんにせえ!って話ですよ。

これには文殊菩薩さまもお手上げです。


 

 

よく会社の社長が、面接で「あなたは運がいい方ですか?」と聞いて、「いい方です」と答えた人を採用するとか言いますけど、それはとても理に適っていると思います。

 

 

誰にでも、運がいいと思えることも悪いと思えることも起こるけれど、どの側面に注目できるかで、それが本当によいできごとになるか悪いできごとになるかって変わってきますからね。

結果、「自分は運がいい!」と思っている人は、運がいいようになっていくんです。

そういう人を雇った方が、自然と会社もいいようにいくでしょう。

 

 

 

・・・・・・だめじゃん、私、社長に採用されないじゃん(社長って誰・笑)。

ねー、わたし口だけは立派でしょー(笑)。

 

 

 

まあ人間は、リスクを回避する本能が強いので、つい予防線を張って警戒させて、危険を回避させるために、ネガティブな考えに傾きやすいという理由もあるとは思うんですけどね。

 

 

でもでも、やってきた幸運を自らないものにしといて、なのに「いいことがない、パッとしない」と嘆くという意味不明のゲームから、私はもう降ります。

 

 

もうなんでも、ほんっっと、好きなようにいいように解釈しよう。

 

とりあえず、「大吉」を享受するぞー!

「金運 思いのまま」って書いてた、やーん、どうしよ♡

文殊菩薩さま、疑ってしまってごめんなさい、人間の弱いこころをお許しくださいませ。

 

 

 

みなさんも、いいことは8分目に受け取って、悪いことは拡大解釈していませんか?

リスク回避のために、ネガティブ思考に陥りやすいのが人間ですが、自分を幸せにする思考を選びましょうね(私と一緒に(←訓練中・笑))。

 

 

 

最近こんな気づきが多いな。

ネガティブをついに捨てる時が来たのか。

 

 

 

 

妹よ。私は常に強くて優秀な姉でいたかったのだ。そしてそれも私の生きづらさの原因の1つだったと気づいたよ。

 

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きみもわたしと同じ、あのおなかから来たんだってね。

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

考えたカウンセラーとしてのキャッチコピーですが、師匠からのフィードバックを待ってお披露目しようと思っていたのですが、そんなに完成されたものにこだわる必要もないかと思い直し、掲載してみました。

うーん、ブログタイトルをキャッチコピーにしたけれど、見にくいかな?

見慣れないからか長ったらしい気もするな。

しばらくコロコロ変わるかもしれませんがご了承ください(^^;)

 

今後も常にブラッシュアップしていくものですし、実際にカウンセリングの経験を積んでいくうちに、また考えが変わるかもしれないので、初期から見てくださっている方には継続して見届けていただくのもいいなと思い至りました。

 

ということで、今後とも末永くよろしくお願いいたします(^^)

 

 

 

さて、私には4つ離れた妹がいます。

 

 

私が、♪ちょんまげちょんまげちょんまげマ〜チと歌い出せば、

   ♪ござるでござるでござるでござる〜と応え、

 

私が何かを食べて「おいしいね」と言えば、

        「あったまろ」と続き、(←わかる人いますか?笑)

 

♪ただいマンゴー チャッチャー と帰ってくれば、

♪おかえリンゴー チャッチャー と迎えてくれる(←完全オリジナル曲。スロウリーでエキゾチックなナンバーです(笑))、

 

ステキな相棒です。

 

 

私は「おねぎょ」と呼ばれていて、妹やおいには、自分でも自分のことを「おねぎょ」と言っています(笑)。

「おねえちゃん」と「姉御」が合体して変形していったのか、出典は記憶にございません(笑)。

 

 

妹とは、同じ家で同じ親に育てられているので、人やものの好み、笑いのツボなどが似ているし、親に対する愚痴も共感・共有できるし、気を遣わない存在なので、妹は結婚して大阪の別の市に住んでいますが、時々一緒に買い物に行ったり、家を行き来したりしています。

 

 

お姉ちゃんと妹と言うと、一般的には、妹が天真爛漫に自由奔放で、姉は妹の言うことをはいはいと聞いてあげるというイメージがあるかもしれませんが、うちはそうでもありませんでした。

 

妹は、天真爛漫というより、私と似ているので、ちょっとしたことを気にしやすい方ではあります。

そして私は、妹にあれこれ命令する女王、というより殿様のようでもありました(笑)。

 

 

私は両親に、「お姉ちゃんなんだから」というようなことを言われた覚えがありません。そこは差をつけないように意識していたんだと思います。

4歳離れているというのもあると思いますが、親が「お姉ちゃんだから」という理由では私に我慢させなかったこともあって、妹に嫉妬したりせずにかわいがることができたのだろうと思います(いや、召使いにしてるだろ・笑)。

ああでも、距離が近すぎて昔はケンカもしたなあ。ケンカっていうか、私の方が強すぎたかも(苦笑)。

 

 

 

以前、私の生きづらさの原因の1つを、主に母との関係にフィーチャーして書きましたが、

www.aikoingk.com

 

 家族における、妹と私の位置づけにも、また1つその原因があったのかもしれないと、最近気づいたのです。

そのことを書いてみようと思います。

 

 

 

両親は私に「お姉ちゃんなんだから」と言って我慢させることはなかったと書きました。

常に何をするにも平等にしてくれていた気がするし、その点では、長子にありがちな、「妹ばかりかわいがられている、親は妹にばかり甘い」という不満はなく、両親からもらう愛情という点においては、私の気持ちは安定していました。

 

 

「お姉ちゃんなんだからしっかりしなさい」というようなことも言われた覚えはないのですが、それでも4つ離れていると、子どもの4つは大きく、発達的にもかなり違うので、今思えば、私は自然と幼い妹のために、譲ったりしていたのかもしれません。

そして、両親も、「お姉ちゃんだからしっかりしなさい」ということばこそ言わないけれど、結局、何となくのイメージで、私の方が頼りになるという目で私を見ていたり、「お姉ちゃんはしっかりしている」とほめていた気がします(これは間接的に「しっかりしなさい」と言っていうということか?笑)。

 

 

妹と私は、幼稚園から大学まですべて偶然同じなんです。

幼稚園は親が選ぶし、小中学校は地元の公立学校なので同じでもおかしくないですが、高校、大学は受験しています。

まあとにかく、学歴的には妹と私は同じなのですが、何かわからないことがあれば、親はたいてい私に聞くのです。

今はさすがに昔ほどそんな傾向は減った気がしますが、末っ子はいつまでも子どもに見えるみたいです。

 

 

私は、幼い妹のため、私をしっかりしているとほめる親のため、その期待に応えたかったのでしょうね。

少々のことでは動じない、多少の困難は涼しい顔してこなす、そんな自分になろうとしていました。

実際そんな風にできたことも多かったし、そういう自分が好きでもあったから、そんなに無理をしていたつもりはなかったのですが。

 

 

しかし、そんな「強くて優秀な姉」という称号の代わりに、親に弱音を吐くとか、親の前で泣くといったことを失ってしまったのです。

 

いや、親に怒られたときは泣いていましたけどね(笑)。怖いのと悔しいのと腹が立つので(笑)。

 

でも、学校や仕事で何か失敗したり落ち込んだり不安になったりしたことは、一切と言っていいほど言えなかったのです。

 

今回も、転職のことを母にやっとの思いで言ったときに、めずらしく久しぶりに泣いたくらいです。

(意外と母がどっしり構えていて、泣けて話せて安心できました。)

 

「どうせ親に言ってもどうにもならないし。心配させるだけだし。」という思いで、親には言えなかったんです。

 

 

 

しかし妹は違いました。

大学の課題がしんどいとか、仕事を辞めたいとか、母に話して泣いていたこともあったのです。

その後母が、「あの子、仕事辞めたいて泣いてやったわ」と私に言ってくるのです。

(母には家族のプライバシーという概念があまりありません(怒笑)。)

 

 

私が中学生、妹が小学生くらいのとき、家族4人で図書館に行ったときに、妹が痴漢に遭いました。下半身を露出して見せてきたそうです(怒怒怒怒怒)。

そのときも、妹は泣いて親に言っていました。

 

私は、すごい、と思いました。

 

痴漢が、じゃないですよ(笑)。

そのことを親に言えることに。

 

私も軽い痴漢の経験は何度かありますが、そういうことは親には一切言えませんでした。

私は何も悪くないのに、なぜか私が恥ずかしい気がして。

親も心配したり怒ると思うし、親に言うのも恥ずかしいし。

 

怖いし腹が立つけれど、言えずに自分でその気持ちを処理していました。

 

あー、我ながらかわいそうだ(涙)。

 

徐々に大人になるにつれて、目つきや雰囲気からおかしいと事前に(笑)わかるようになり、こっちから痴漢野郎(決めつけ・笑)に舌打ちしてやるようになりましたけどね(怒)。

 

幸か不幸か、そんなにたくましくなってしまったんです(涙)。

 

 

父親とは世の中のいろいろについて晩ごはん時に議論することがよくありました。

父も話し好きな方なので、ケンカではないのですが、子どもといろいろとディベートするのがコミュニケーションの1つで楽しかったのでしょう。

そういうとき、ヒートアップする父と私の議論に妹は参戦せず、ご飯を食べ終わって先に居間や自分の部屋に戻っていました。

(ちなみに母はそういうとき、ちょっと的外れな意見をときどき挟んでくる係です。天然なもので(笑)。)

 

私は、単に妹はその話に興味がないだけと思ってまったく気にしていませんでしたが、実は妹は、

「自分のことなんて誰も興味がないんだ、だから自分の好きに生きていこう」

と思っていたということを、最近話していて知りました。

 

それはまったくの妹のいじけた妄想というか、私から見ても、両親が妹のことも同じように気にかけて大事に思っているのは完全な事実なのですが、家の中では、内情は似たり寄ったりなのに、長女私の方が優秀という、リーダーのような、ヒーローのようなポジションになっていたのです。

 

 

 

何となく感じていた自分のそのヒーローポジションに、私は誇りを持っていましたが、それこそが自分を不自由にさせていたところもあるんだと、最近気づいたのです。

 

どうして生きづらいのだろう、虐待されたとか否定されたとか、そんな生い立ちもないのになんでだろうと、ずっと考えていたその原因の1つに、また気づいたのです。

 

 

ヒーローは、常にかっこよくいて涼しい顔でみんなを助けて安心させないといけないので、辛いことがあってもそれを見せずに1人で処理しないといけない、負けてはいけないので負けそうになるとぎこちなくなる、拗ねてしまう(結果1番かっこ悪い・笑)、常にぶっちぎりの断トツ1位でないといけないので少々の成果では満足できない(「すごーい!!!」と驚かれるほどのリアクションが返ってこないと達成感を得られないようなところが未だにあります)、自分が楽しいだけでは満足できず、世間に認められて成功しなければいけないみえみえのみえっぱり……

 

あー書いてるだけでしんど、、、これや、これがわたしの生きづらさの原因や。。。

 

 

 

常にトップを走り続けるヒーローポジションと引き換えに、自由を失ってしまったのです、きっと。

だいぶましになったものの、「できる」、「優秀」というようなワードには、未だに反応してしまいますね(恥)。

そのポイントにおいては特に、負けず嫌いが出てしまうんです(恥恥恥)。

 

 

 

強制されなくても、勝手に期待を背負ってこんな風になってしまうんですね……・・・ ・ ・

 

遠い目(笑)。

 

 

 

30歳を過ぎたあたりから、自分には生きづらさがあるんと明確に感じ始めて、「頑張ることは過ぎるとよくない、人にもっと頼っていいのだ」という考えを知ってからは、頼る側の人のかわいらしさにも気づき、だいぶ変わってきたのですが。

 

 

 

妹は、優秀であるというポジションを手放した代わりに(正直変わらないんですけどね、むしろ妹の方がよくやってるんじゃないかと思ったりします)、そんなに負けず嫌いでもないし、等身大の自分を受け入れている気がするし、成功しなければとかいうこだわりは薄いと思います。

自分の「好き」により忠実かもしれない。

ああ、そっちの方が正解だったかなあ。。。

もちろん、妹には妹の、苦悩はあるんですけどね。

 

 

 

ほんと、人生何がいいかわからないです(笑)。

ヘンにできてほめられても、ほめられるのがデフォルトになっちゃって生きづらくなっちゃうこともあるんです(笑)。

 

 

まあ、そんなにしてまで家族の期待に応えたいというくらい、家族が好きだったんだよな。

 

師匠は何ごとも、深層まで突き詰めれば「愛」にたどりつくと言っています。

 

私は、妹が、父が母がほんとに好きで、喜ばせたかったんだなあ。

それだけの愛情があったんだ。

うん、自己肯定的に見よう、愛の視点で自分を見よう。

  

こんなときは、「かっこ悪くてもいい」、「期待を裏切ってもいい」、「できないやつでもいい」、「負けてもいい」、「私の負けです」、……そんなことばでアファメーションをしたらいいのだろうか(笑)。

 

 

 

いやあ、これからはもっとアホでかわいげのある女になります。

間に合うかな?

間に合う間に合う。

笑ろとけ笑ろとけ(笑)。

 

 

 

 

結構順調な人生だったのになぜか生きづらいという方、もしかして、「何でもできるヒーローでいよう」、「自分は優秀でなければ、すごい結果を出さなければ」、「常にみんなを助けて安心させなければ」と思っている節はありませんか?

 

結構優秀だったのに、ほめられて愛されてきたのになぜ生きづらいの?という場合、もしかしたらそれこそが、あなたの自由を奪っていた(自分が望んでしてるんだけどね・笑)ということもあるやもしれません。

 

 

 

あーもう、自由に生きましょ、普段アホみたいでもやるときはやる、みたいなヒーローってかっこいいじゃないですか。アホの分量増し増しでいきましょ。

(あくまでもヒーローは手放したくないのね・笑)

 

 

 

まあ妹とはこんな話もできて、ある意味両親よりいろいろ話せて共感できるかわいい大事な存在です。

そしてこんな私の取り扱いを妹はよく心得ていて、私のことを「自己愛パーソちゃん」(自己愛パーソナリティの略・笑)と呼んでいます(笑)。

 

今では義弟も加わって、同世代の同じ社会人としていろいろ話せるのも楽しいねえ。

 

 

 

 

 

妹よ。

子どもは親を助けたくて親を選んで生まれてくるというけれど、君はどうしてこの親を選んだんだい?

おねぎょも何でこの親にしたんだろうねえ。

何にせよ、君がいてくれて本当によかった。

 

 

 

 

 

 

どこまでいってもどのみち主観しかないんだから、Youの好きなように感じちゃいなよ!

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冷蔵庫を開けて何をみつけるかは、

人それぞれ違うよね。

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

おかげさまで、何とか今月の宿題を提出することができました。

 

カウンセラーとしてのキャッチコピーも考えました。また師匠から何らかのフィートバックがいただけるのだと思うのですが、そののちに、しれっとこのブログでもお披露目しようと思っています(笑)。

 

 

 

さて、「心理学」というと、世間ではカウンセリングのイメージが強いと思いますが、それはあくまでも心理学の応用分野の1つであって、一口に心理学と言っても、さまざまな分野があります。

 

大ざっぱに言えば、「心」を通すものはすべて「心理」です。

 

 

たとえば、人間の、刺激の感じ方、感覚。

 

 

重さについて考えてみましょう。

 

手のひらの上に、1円玉を置かれたらわかると思いますか?

きっとわかりますよね?

たったの1gですが、重みを感じられると思います。

 

では、5kgのお米を抱えているところに、1円玉を乗せたらどうでしょう?

ちょっと重くなったなと気づけますか?

気づけないです。

世間にはいろいろな人がいるので、何か特殊な訓練をされていて「私は気づけます」という人も中にはいそうですが(笑)、一般の人(笑)はわからないです。

 

 

長さ。

体長2cmほどのメダカが、ある朝突然5cmになったら、「うわっ、大きくなってる!」と驚くでしょう。

しかし、ジンベエザメの体長がある朝突然3cm伸びても、きっと誰も気づかない。

ベテラン飼育員さんなら気づくのだろうか。

 

 

つまり、人間は、正確に刺激を感じ取っているのではないんです。

いつも一定に、1gや3cmの差を感じとっているわけではなく、元々感じている「量」によって、その差を感じたり感じなかったりしているわけです。

 

 

この、心で感じとれる量を、「物理量」に対して、「心理量」と言います。

正確に説明しだすと難しくややこしいので、詳細は良書にゆずります(笑)。

 

 

こういう感覚なんかも、物理的な量を「心」でどう感じるかということを研究するので、心理学の一部になります。

どちらかというと、心理学の中でも概論の教科書の最初の方に出てくる基礎的な分野ですね。

 

人が感じる感情などは、こういう感覚などが基礎にあって、その上で社会的な要因などさまざまなものが混じり合って生じるとても複雑なもので、カウンセリングなどは、応用心理学の1つと言えます。

 

 

 

感覚の話に戻ると、音なんかも、音の正体は、物理的には音波ですよね。

物が動くと、空気が振動し、その空気の振動が鼓膜を揺らし、音として、私たちに「聞こえた」という感覚を生じさせる。

 

モスキート音ということばを聞いたことのある方は多いと思いますが、高周波数の音です。蚊の飛ぶ音にたとえてこの名前が付けられています。

人間の耳は、老化により高周波数の音から聞こえにくくなりますが、このモスキート音は、若者にしか聞こえない高い周波数の音で、不快な音なので、たむろする若者を撃退(笑)するために、コンビニの入り口付近で流すなんていう使われ方もしているようです。

いやぁほんと、あの音って不快ですよねー(←みえっぱり・笑)

 

モスキート音は、人間の若者には聞こえますが、若者でさえ聞こえない周波数もあります。超音波ですね。

この世界にある空気の振動を、すべて人間が感じ取っているわけではないんですよね。

無数の音波が発生している中で、どの人間も、音として聞いていない、気づいていない振動もあるわけです。

 

 

色にしてもそう。

子どもの頃から、「犬の目は白黒しか見えない」と聞いて育ちましたが、そもそも色は、物体が光を反射したり吸収したりしている光の波長を感じとって、色として認識しているわけです。

 

だから、たとえば人間は、ある物体をこんなとして認識していても、「本当に」その物体がこんなであるかはわからないわけです。

 

もう、意味わかります?(笑)

宿題が終わった開放感でつい、我ながらややこしい話に手を出してしまいました(笑)。

 

たとえば、Aさんには色①がこんな色に見えていて、それを「赤」と呼んでいる、

その一方、Bさんには色①がこんな色に見えていて、それを「赤」と呼んでいる、

2人とも、色①の見え方は本当は違うけれど、2人ともいつも色①を「赤」と呼ぶので、2人の間では話のつじつまが合うし、2人はその違いに永遠に気づかないのです。

「いや、違う、この色はもっと青みがかってる」とかことばで微調整したって、その「青」と感じているものが、AさんとBさんでまったく同じかもわからないんです。

 

ここまで極端に見える色が違うということはなくても、もしかしたらそれぞれ見ている色は微妙に違うかもしれない。顔が違うように、感覚器官にも多少の個人差があるかもしれない。

どこまでいっても、その人の「目」を通してしか、色という感覚は感じられないですから。

 

さらに、色①の「本当の色」は、Aさんの感じている赤でも、Bさんの感じている赤でもないかもしれないのです。

いや、ん?本当の色って何ですか?(笑)

そこには光の波長があるだけで、受ける光が違えば、見える色が変わるわけだから。

もっと精度高く光の波長をキャッチできる生き物がいれば、また違う色に見えるのかもしれない。

正確な知識は、良書に譲ります(逃亡・笑)。

 

 

 

要は、すべてのものが、自分の感覚を通してしか感じられないし、それは物理的に正確ではないということなのです。

もっと人間より精度の良い感覚器官を持った生き物がいたとしても、その生き物も、すべての物理的な刺激を正確に感じとっているとは限らないのです。不可能?

 

 

これを考えだすと、いったい私が今見ているものは何なんだろう、私は何に囲まれているのだろう、ここはどこなのだろうという何とも不思議な気分になります。

そして、ある意味みんな、すべてにおいてどこまで行っても自分の感覚を通してしか感じられないという意味では、一人ぼっちと言えるかもしれません(悲しい感じにするなよ・笑)。

 

 

 

今日は何が言いたいかというと、すべてはある意味どこまでも主観的なんだよね、ということです。

感覚のような基礎的なものでも、大きく言えば、実はこんなに主観的なんです。

ならば、優劣とか、美醜とか、感情とか、そういう応用的なものの主観加減はいかほどか、という話なんです。

 

もう、重さとか長さとか色とか音とか、一見絶対的に思えるものだって、実はめちゃくちゃ主観的なんだから、人の評価とか、人気とか、そんなものなんて主観の極みだよねって話。

 

だから、ぜーんぜん気にしなくていいし、逆に言えば、自分の好きなように感じちゃっていいんです。

どうせ不正確で勘違いで主観的なんだったら、思いっきり楽しくなる感じ方を選ぼうぜってことなんです。

 

もう、私はすてきなとびっきりいい女って、堂々と思ったっていいんです。

本当にそうなのか?真実なのか?なんて考えなくていい。

どうせもともと正解はありえないし、逆に言えば、すべてが正解なのだから。

 

 

 

そしてもう1つ。

幸せも、正確には感じとれないのかもしれませんね。

 

お米を抱えていたら、1円玉が乗ってもわからないように、今実はたくさんの幸せを抱えていたら、そこに小さな幸せが乗ってもわからないのかもしれない。

もしもたとえば、命をおびやかすようなできごとに遭ったとしたら、そのときに、1円玉のような小さな幸せの重みに、はじめて、やっと、気づくのかもしれない。

 

 

「不幸でもないけど、幸せでもない」っていうのは、実はかなーり幸せなのかもしれない。

感覚ってすぐ順応するからねー。

 

 

ああ、ただひたすらに耳が痛い(泣笑)。

 

 

長くなりましたが、人間の基礎的な感覚でさえ結構主観的なんだから、どうせなら楽しくなる主観を選びません?(私と一緒に(←訓練中・笑))ってお話でした。

 

 

 

 

 

私に何ができるだろう。何がしたいだろうか。頭の中垂れ流し。。。

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こんなところにほくろがあったなんてね、自分では知らなかったのよね。

 

 

 

 

カウンセラー根本裕幸お弟子講座、今月の宿題の1つは、自分の売り方を考えること。

 

どんなジャンルを扱い、どんなスタイルで、どんなツールを使って自分を売りこんでいくのか。

 

極めつけに、キャッチコピーも考える。

 

 

うーん、締め切りの今日(正確には昨日)も、まだ何も形になっていない。

 

 

何となくはあるのだけれど。

 

 

私がしたいのは、やっぱり、その人の魅力を引き出すこと。

 

それなりにやってきたのに、不全感が拭い切れない人、そういう人が、心から幸せ!って言えるように、その人を制限しているものを、出し切れていないものを、出す。

そういうことの、お手伝い。

 

要は今、私が自分自身にしたいことでもあるのだけれど。

 

うーん、違うのかなあ……

 

魅力を引き出す、、、引き出すというか、何よりまず、本人それを受け取っていないという場合も大いにあるよなあ。

 

 

私に何ができるだろうか。

 

 

売りこむツールもなあ……

私はあれこれ戦略的にやるのに苦手意識がある。

何でだろう。

めんどくさがりだから、それでそんなに効果が出るように思えないから、……

元々、いいものを提供していたら自然とお客さんは寄ってくるっていう、丼勘定的なとこあるからなあ(笑)。

お金もそんなとこあるなあ。いい働きしてたら、自然とお金はついてくる、みたいな。

 

 

仲間の中には、いろいろ情報を集めて、戦略的に考えている人もいる。

そういうまっすぐな前向きさがうらやましくて気持ちいい。

 

でも私は、インプットは感覚的、直感的な方な気がする。

モヤモヤ考えて思考的ではあるけれど、結局いろいろ考えた末に、あるときいろんなキーワードが1つにつながって、ピン!とくる感じ。

 

だから、キャッチコピーも、最後の最後にこれ!というのが降りてくる気もする。

いやいや、そんな大風呂敷広げるのはやめとこう(笑)。でもギリギリまで粘ろう。(もう締め切り今日だよ)

 

 

逆にアウトプットは論理的かな。

感覚的に感じたことを、人にリアルに伝わるように、言語化することはできる。

 

クライアントさんが何となく感じていることを、はっきりとことばにして差し上げることは

 

✳︎まめちしき✳︎

みなさんも、自分を分析するとき、インプットとアウトプットに分けて考えられてみるといいですよ!インプットは、感覚的か論理的か、あるいは視覚的(道を映像で覚えるとか)か聴覚的(道案内のことばで覚えるとか)か。アウトプットも同じ。

それで、自分に向いているやり方とか得意が見えてきたりします。

 

 

イラストはやりたいことの1つだったし、カウンセラーというある意味「公人」としてブログで発信することで、そこに絵をくっつけて、見てもらえるというのはありがたいなあ。

 

イラストも私のトレードマークにして、クライアントさんに、イラストでもメッセージを伝えられるようにできたらいいな。

 

 

仲間がくれた、私のキーワードは、素直、正直、自己開示……このブログでも、体裁構わずさんざん好きなこと書いてきちゃったからね(笑)。

 

でも、自分が本当に感じたことを表現するという「自己一致」は、私が大事にしていることだ。

それに共感していただける人に、きてほしいなあ。

 

他には、人間くさい(笑)。

それも大事にしてることだな(笑)。

等身大の方がおもしろいし、伝わる、そんな気がして、やってきた。このブログも人生も。

 

笑いがある。

うん、これも。

結局、笑えたらいい気がする。どんな状況でも、笑えたらそれは幸せということだから。

微笑でも爆笑でも、笑ろとけ笑ろとけ。

 

そして、いいところもいろいろあるのに、自己否定が多い(笑)。

ほんとにそう。

これも私がまだまだ向き合っていくことだな。

そしてそれが誰かの役に立ちますように。

 

 

うーん、自分のことって、わかるようでわからない。

仲間は短期間でよく私という人間を感じ取ってくれている。

さすが、カウンセラーを志すだけあって、とでも言おうか。

そして、あたたかい。

 

 

宿題の締め切りに追われて、頭の中垂れ流しなだけのブログです(笑)。

そのうちキャッチコピーを掲載しだしたら、「ああ、とりあえずこれにしたのね」と笑ってやってください(笑)。

 

 

 

 

 

変わるため、ではなく

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そのままでいいよって、言ってほしかったんだよね。

わかってたよ、なんとなく。

 

 

 

 

おはようございます、カウンセラーいなこです。

 

 

私はもともと、この人はどうしてそんなふうに考えるのだろうということを考えるのが好きだったり、心のありようが、幸せにもっとも効率よく近づけるすべての鍵のような気がして、心理学とかカウンセリングとかがずっと好きでした。

 

そして、だんだんと、なんとなくの生きづらさに気づき始めてからは、自分の心のありようも知りたくて変えたくて、ここ何年かは、多くはその目的で心理や自己啓発系の読み物を読んだりしています。

 

 

だけど、気づいたんです。

 

私は、心理学やらを知って、自分を変えようとしているというよりは、どこか、私の考えはまちがってない、私のこれまでの生き方は正しかった、私の育てられ方はまちがっていなかった、そんなことを確かめるために、知ろうとしている節があることに。

 

 

もちろん、ああそうか、そういうとらえ方もあるのかという気づきもあり、少しずつではありますが、変わってきたところもあるのはあるんです。

 

 

だけど、「ほらやっぱり、私は『大丈夫な側』の人間だったんだよ」ということを確認するために、いろいろ読んだりしているところも大いにある気がするんです。

 

 

そりゃなかなか変わらんわなー(笑)。

 

 

 

結局、「変わりたい」以上に、

「そのままでいいよ」

って言ってほしいんでしょうね。

 

 

 

がんばりたくない、ありのままでこのままで、私のすばらしさを認めてちょうだい。

 

 

 

今となっては実は、「変わりたい」以上に、「変わらぬ私を称えてほしい」という思いを抱えてきた気がします。

 

 

 

じゃあまずは、自分で自分を、

 

「ありのままでそのままで、あなたはすばらしい!」

 

そう称えなさい、そういうことになるんですよね、心の世界ではきっと。

 

 

 

ぐすん、やさしいような、厳しいような、心の世界(笑)。

 

 

 

 

なんなんだろう。

自分のたくさんの矛盾だらけに気づく今日このごろです(笑)。